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碧巌録 / 第三十四則

豈不見。馬祖問百丈。什麼處來。丈云。山下來。祖云。路上還逢著一人麼。丈云。不曾。祖云。為什麼不曾逢著。丈云。若逢著。即舉似和尚。祖云。那裏得這消息來。丈云。某甲罪過。祖云。却是老僧罪過。仰山問僧正相類此。當時待他道曾到五老峯麼。這僧若是箇漢。但云禍事。却道不曾到。這僧既不作家。仰山何不據令而行。免見後面許多葛藤。却云。闍黎不曾遊山。所以雲門道。此語皆為慈悲之故。有落草之談。若是出草之談。則不恁麼。

新字:豈不見。馬祖問百丈。什麼処来。丈云。山下来。祖云。路上還逢著一人麼。丈云。不曽。祖云。為什麼不曽逢著。丈云。若逢著。即舉似和尚。祖云。那裏得這消息来。丈云。某甲罪過。祖云。却是老僧罪過。仰山問僧正相類此。当時待他道曽到五老峯麼。這僧若是箇漢。但云禍事。却道不曽到。這僧既不作家。仰山何不拠令而行。免見後面許多葛藤。却云。闍黎不曽遊山。所以雲門道。此語皆為慈悲之故。有落草之談。若是出草之談。則不恁麼。

書き下し

豈に見ずや、馬祖百丈に問ふ、什麼の処よりか来る。丈云く、山下より来る。祖云く、路上還た一人に逢著するや。丈云く、曾て逢はず。祖云く、什麼としてか曾て逢著せざる。丈云く、若し逢著せば、即ち和尚に挙似せん。祖云く、那裏より這の消息を得来る。丈云く、某甲の罪過。祖云く、却つて是れ老僧の罪過。仰山の僧に問ふ、正に此に相類す。当時他が曾て五老峰に到るやと道ふを待ちて、這の僧若し是れ箇の漢ならば、但だ禍事と云はん。却つて曾て到らずと道ふ。這の僧既に作家ならず、仰山何ぞ令に拠つて行ぜずして、後面の許多の葛藤を見ることを免れざる。却つて云く、闍黎曾て山に遊ばずと。所以に雲門道ふ、此の語は皆慈悲の為の故に、落草の談有りと。若し是れ出草の談ならば、則ち恁麼ならず。

現代語訳

知らないか。馬祖が百丈に問うた、「どこから来たのか」。百丈は言った、「山の下から来ました」。馬祖は言った、「道中で誰かに出会ったか」。百丈は言った、「出会いませんでした」。馬祖は言った、「なぜ出会わなかったのか」。百丈は言った、「もし出会っていたら、和尚にお話ししたでしょう」。馬祖は言った、「どこでそんな消息を得てきたのか」。百丈は言った、「わたしの過ちです」。馬祖は言った、「いや、かえってわたしの過ちだ」。仰山が僧に問うたのは、まさにこれと似ている。あのとき仰山が「五老峰には登ったことがあるか」と言ったところで、この僧がひとかどの男であれば、ただ「とんだことだ」と言えばよかった。ところがかえって「行ったことはありません」と言った。この僧が練達者でない以上、仰山はなぜ法令どおりに打ち据えて、後の多くのもつれを見ずにすむようにしなかったのか。そうせずに「お前さんは山に遊んだことがないのだな」と言った。だから雲門は「この言葉はみな慈悲のために、草の中に降りて語ったものだ」と言ったのである。もし草の外に出た話であれば、こうはならない。

解説

第三十四則の本則評唱の後半である。圜悟は、馬祖道一と百丈懐海の問答を引いて仰山の話と並べる。路上で誰にも逢わなかったと言う百丈を馬祖が問い詰め、百丈が罪過と言うと、馬祖はかえって老僧の罪過だと返した。仰山の場合、僧に力があれば禍事と一言で返せたはずだが、僧は素直に行っていないと答えた。仰山は令に従って打つこともできたのに、あえて言葉を重ねた。それが雲門の言う慈悲の落草の談だと圜悟は説く。相手の力量が足りないとき、切り捨てずに言葉を重ねるのも指導者の一つの選択だと考えさせる段である。

この章句が説くこと

慈悲問答指導公案馬祖百丈

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