碧巌録 / 第二十三則
妙峯孤頂草離離 拈得分明付與誰不是孫公辨端的髑髏著地幾人知妙峯孤頂草離離。草裏輥有什麼了期。拈得分明付與誰。什麼處是分明處。頌保福道只這裏便是妙峯頂。不是孫公辨端的。孫公見什麼道理。便云。是則是可惜許。只如髑髏著地幾人知。汝等諸人還知麼瞎。
新字:妙峯孤頂草離離 拈得分明付与誰不是孫公弁端的髑髏著地幾人知妙峯孤頂草離離。草裏輥有什麼了期。拈得分明付与誰。什麼処是分明処。頌保福道只這裏便是妙峯頂。不是孫公弁端的。孫公見什麼道理。便云。是則是可惜許。只如髑髏著地幾人知。汝等諸人還知麼瞎。
書き下し
妙峰孤頂草離離、拈得して分明なるも誰にか付与せん。是れ孫公の端的を辨ずるにあらずんば、髑髏地に著くも幾人か知る。妙峰孤頂草離離、草裏に輥る、什麼の了期か有らん。拈得して分明なるも誰にか付与せん、什麼の処か是れ分明なる処。保福の「只だ這裏便ち是れ妙峰頂」と道ふを頌す。是れ孫公の端的を辨ずるにあらずんば、孫公什麼の道理をか見て、便ち云ふ、「是なることは則ち是なるも、惜しむべし」と。只だ「髑髏地に著くも幾人か知る」が如き、汝等諸人還た知るや。瞎。
現代語訳
妙峰の孤高の頂には草が生い茂る。はっきりとつかみ取ったが、誰に手渡そうか。孫公が要点を見分けたのでなければ、髑髏が地に転がっても、何人がそれと知ろうか。妙峰の孤高の頂には草が生い茂る、とは、草の中を転げ回っていて、いつ終わるときがあろうか。はっきりとつかみ取ったが、誰に手渡そうか、とは、どこがはっきりしたところなのか。これは保福が「ここがまさに妙峰の頂だ」と言ったことを頌している。孫公が要点を見分けたのでなければ、とは、孫公はどんな道理を見て「そのとおりだが、惜しいことだ」と言ったのか。そして「髑髏が地に転がっても、何人がそれと知ろうか」について、お前たちは分かるか。盲め。
解説
この章句が説くこと
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論語・述而篇子曰わく、述べて作らず、信じて古を好む。竊かに我を老彭に比す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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