碧巌録 / 第二十三則
雪竇著語云。今日共這漢遊山。圖箇什麼。且道落在什麼處。復云。百千年後不道無。只是少。雪竇解點胸正似黃檗道不道無禪。只是無師。雪竇恁麼道。也不妨險峻。若不是同聲相應。爭得如此孤危奇怪。此謂之著語。落在兩邊。雖落在兩邊。却不住兩邊。後舉似鏡清。清云。若不是孫公便見髑髏遍野孫公乃長慶俗姓也。
新字:雪竇著語云。今日共這漢遊山。図箇什麼。且道落在什麼処。復云。百千年後不道無。只是少。雪竇解点胸正似黄檗道不道無禅。只是無師。雪竇恁麼道。也不妨険峻。若不是同声相応。争得如此孤危奇怪。此謂之著語。落在両辺。雖落在両辺。却不住両辺。後舉似鏡清。清云。若不是孫公便見髑髏遍野孫公乃長慶俗姓也。
書き下し
雪竇著語して云く、「今日這の漢と共に遊山して、箇の什麼をか図る」。且く道へ、什麼の処にか落在す。復た云く、「百千年後、無しとは道はず、只だ是れ少なし」。雪竇解く胸を点ず。正に黄檗の「禅無しとは道はず、只だ是れ師無し」と道ふに似たり。雪竇恁麼に道ふ、也た妨げず険峻なることを。若し是れ同声相応ずるにあらずんば、争でか此の如く孤危奇怪なるを得ん。此れ之を著語と謂ふ。両辺に落在す。両辺に落在すと雖も、却って両辺に住せず。後に鏡清に挙似す。清云く、「若し是れ孫公にあらずんば、便ち髑髏の野に遍きを見ん」。孫公は乃ち長慶の俗姓なり。
現代語訳
雪竇は言葉を添えて言った。「今日はこの男と山歩きをして、いったい何をもくろんだのか」。さあ言え、その言葉はどこに落ち着くのか。また言った。「百千年の後にも、こういう人がいないとは言わない。ただ少ないのだ」。雪竇は自分の胸を指すことを心得ている。まさに黄檗が「禅がないとは言わない。ただ師がいないのだ」と言ったのに似ている。雪竇のこの言い方は、実に険しい。同じ声が響き合うのでなければ、どうしてこれほど孤高で並外れたものになりえようか。これを著語という。両方の側に落ちている。両方の側に落ちていながら、しかも両方の側にとどまらない。のちにこの話を鏡清に伝えると、鏡清は言った。「もし孫公でなかったら、髑髏が野に満ちるのを見たことだろう」。孫公とは長慶の俗姓である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『碧巌録』第二十三則挙す。保福・長慶遊山する次で、福手を以て指して云く、「只だ這裏便ち是れ妙峰頂」。慶云く、「是なることは則ち是なるも、惜しむべし」。雪竇著語して云く、「今日這の漢と共に遊山して、箇の什麼をか図る」。復た云く、「百千年後、無しとは道はず、只だ是れ少なし」。後に鏡清に挙似す。清云く、「若し是れ孫公にあらずんば、便ち髑髏の野に遍きを見ん」。
-
『碧巌録』第二十則雪竇復た拈じて云く、這の老漢也た未だ勦絶することを得ず。復た一頌を成す。盧公付し了りて亦た何をか憑まん、坐倚して祖灯を継ぐことを将ゐること休めよ。堪対す暮雲の帰りて未だ合せざるに、遠山限り無く碧層層。盧公付し了りて亦た何をか憑まん。何の憑拠か有る。直に須らく這裏に向かつて恁麼に会し去るべし。更に株を守りて兎を待つこと莫かれ。髑髏前に一時に打破して、一点の事の胸中に在る無く、放ちて灑灑落落地ならしむ。又何ぞ必ずしも憑むことを要せん。或いは坐し或いは倚る、仏法の道理を作すことを消ひず。所以に道ふ、坐倚して祖灯を継ぐことを将ゐること休めよと。雪竇一時に拈じ了れり。他に箇の転身の処有り、末後に自ら箇の消息を露はす。些子の好き処有りて道ふ、堪対す暮雲の帰りて未だ合せざるにと。且く道へ、雪竇の意什麼の処にか在る。暮雲帰りて合せんと欲して未だ合せざる時、爾道へ作麼生。遠山限り無く碧層層。旧に依りて鬼窟裏に打入し去る。這裏に到りて得失是非、一時に坐断して灑灑落落たらば、始めて些子に較れり。遠山限り無く碧層層。且く道へ、是れ文殊の境界か、是れ普賢の境界か、是れ観音の境界か。此に到りて且く道へ、是れ什麼人の分上の事ぞ。
-
『碧巌録』第八則雪竇若し恁麼に慈悲もて頌出して人をして見せしめずんば、争でか善知識と名づくることを得ん。古人此の如くなる、一一皆是れ事已むことを獲ず。蓋し後学の他の言句に著いて、転た情解を生ずるが為に、所以に古人の意旨を見ず。如今忽ち箇の出で来つて、禅床を掀倒し、大衆を喝散する有るも、他を怪しむことを得ず。然も此の如くなりと雖も、也た須らく実に這の田地に到つて始めて得べし。雪竇道ふ、「千古対無し」。他只だ道ふ、「看よ翠巌が眉毛在りや」。什麼の奇特の処か有つて、便乃ち千古対無き。須らく知るべし、古人一言半句を吐き出す、是れ造次にあらざることを。須らく是れ乾坤を定むる底の眼有つて始めて得べし。雪竇一言半句を著くるも、金剛王宝剣の如く、踞地の獅子の如く、石火を撃つが如く、閃電光に似たり。若し是れ頂門に眼を具せずんば、争でか能く他の古人の落処を見ん。這箇の示衆、直に千古対無きことを得て、徳山の棒、臨済の喝に過ぎたり。
-
『碧巌録』第二十三則妙峰孤頂草離離、拈得して分明なるも誰にか付与せん。是れ孫公の端的を辨ずるにあらずんば、髑髏地に著くも幾人か知る。妙峰孤頂草離離、草裏に輥る、什麼の了期か有らん。拈得して分明なるも誰にか付与せん、什麼の処か是れ分明なる処。保福の「只だ這裏便ち是れ妙峰頂」と道ふを頌す。是れ孫公の端的を辨ずるにあらずんば、孫公什麼の道理をか見て、便ち云ふ、「是なることは則ち是なるも、惜しむべし」と。只だ「髑髏地に著くも幾人か知る」が如き、汝等諸人還た知るや。瞎。
-
『碧巌録』第二十五則這般の事、若し是れ通方の作者ならば、古人の実処に到って、自然に力を費やさず。他人の他底を搆へ得る無きを見て、復た自ら徴して云く、「畢竟如何」。又奈何ともし得ず。自ら云く、「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」。這箇の意又作麼生。且く道へ、什麼の処を指して地頭と為す。妨げず句中に眼有り、言外に意有ることを。自ら起き自ら倒れ、自ら放ち自ら収む。豈に見ずや、厳陽尊者、路に一僧に逢ひ、拄杖を拈起して云く、「是れ什麼ぞ」。僧云く、「識らず」。厳云く、「一条の拄杖も也た識らず」。厳復た拄杖を以て地上に劄すること一下して云く、「還た識るや」。僧云く、「識らず」。厳云く、「土窟子も也た識らず」。厳復た拄杖を以て担って云く、「会すや」。僧云く、「会せず」。厳云く、「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」。古人這裏に到って、什麼と為てか住まることを肯ぜざる。雪竇頌有り、云く、「誰か機に当たって挙して賺かざる、亦還た希なり。峭峻を摧残し、玄微を銷鑠す。重関曾て巨いに闢く、作者未だ同じく帰せず。玉兎乍ち円かに乍ち欠け、金烏飛ぶに似て飛ばず。盧老知らず何れの処にか去る、白雲流水共に依依たり」。什麼に因ってか山僧道ふ、「脳後に腮を見ば、与に往来すること莫れ」と。纔かに計較を作さば、便ち是れ黒山鬼窟裏に活計を作す。若し見得して徹し、信得して及ばば、千人万人も自然に羅籠すれども住まらず、奈何ともし得ず。動著し拶著すれば、自然に殺有り活有り。雪竇他の意を会して「直に千峰万峰に入り去る」と道ふ、方に始めて頌を成す。落処を知らんと要せば、看取せよ雪竇の頌に云く。
-
『碧巌録』第三十一則若し是れ通方の作者、大解脱を得る底の人ならば、必須ず別に生涯有らん。若し是れ機境忘れざる底ならば、決定して這の両頭に滞在せん。若し古今を明辨して、天下人の舌頭を坐断せんと要せば、須らく是れ這の両錯を明取して始めて得べし。後頭の雪竇の頌に至るに及んでも、也た只だ這の両錯を頌す。雪竇は活鱍鱍の処を提げんと要す、所以に此の如し。若し是れ皮下に血有る底の漢ならば、自然に言句の中に向いて解会を作さず、繫驢橛上に向いて道理を作さず。有る者は道ふ、雪竇は麻谷に代はつて這の両錯を下すと。什麼の交渉か有らん。殊に知らず、古人の著語は要関を鎖断することを。這辺も也た是、那辺も也た是、畢竟這の両頭に在らず。慶蔵主道ふ、錫を持して禅床を遶る、是と不是と倶に錯なりと。其の実も亦た此に在らず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る