碧巌録 / 第十八則
肅宗代宗。皆玄宗之子孫。為太子時。常愛參禪。為國有巨盜。玄宗遂幸蜀。唐本都長安。為安祿山僣據。後都洛陽。肅宗攝政。是時忠國師。在鄧州白崖山住庵。今香嚴道場是也。四十餘年不下山。道行聞于帝里。上元二年勅中使。詔入內。待以師禮。甚敬重之。甞與帝演無上道。師退朝。帝自攀車而送之。朝臣皆有慍色。欲奏其不便。國師具他心通。而先見聖奏曰。我在天帝釋前。見粟散天子。如閃電光相似。帝愈加敬重。及代宗臨御。復延止光宅寺。十有六載。隨機說法。至大曆十年。遷化。山南府青銼山和尚。昔與國師同行。國師甞奏帝令詔他。三詔不起。常罵國師耽名愛利。戀著人間。
新字:粛宗代宗。皆玄宗之子孫。為太子時。常愛参禅。為国有巨盗。玄宗遂幸蜀。唐本都長安。為安禄山僣拠。後都洛陽。粛宗摂政。是時忠国師。在鄧州白崖山住庵。今香厳道場是也。四十余年不下山。道行聞于帝里。上元二年勅中使。詔入内。待以師礼。甚敬重之。甞与帝演無上道。師退朝。帝自攀車而送之。朝臣皆有慍色。欲奏其不便。国師具他心通。而先見聖奏曰。我在天帝釈前。見粟散天子。如閃電光相似。帝愈加敬重。及代宗臨御。復延止光宅寺。十有六載。随機説法。至大暦十年。遷化。山南府青銼山和尚。昔与国師同行。国師甞奏帝令詔他。三詔不起。常罵国師耽名愛利。恋著人間。
書き下し
粛宗・代宗は、皆玄宗の子孫なり。太子たりし時、常に参禅を愛す。国に巨盗有るが為に、玄宗遂に蜀に幸す。唐は本長安に都す。安禄山に僣據せられ、後に洛陽に都す。粛宗政を摂す。是の時忠国師、鄧州の白崖山に在りて庵に住す。今の香厳の道場是れなり。四十余年山を下らず。道行帝里に聞こゆ。上元二年、中使に勅して、詔して内に入らしめ、待するに師礼を以てし、甚だ之を敬重す。嘗て帝の与に無上道を演ぶ。師朝を退くに、帝自ら車を攀きて之を送る。朝臣皆慍色有り、其の不便を奏せんと欲す。国師他心通を具して、先づ聖に見えて奏して曰く、我天帝釈の前に在りて、粟散の天子を見ること、閃電光の如くに相似たり。帝愈々敬重を加ふ。代宗の臨御に及んで、復た延いて光宅寺に止まらしむること十有六載、機に随つて法を説く。大暦十年に至りて遷化す。山南府青銼山の和尚、昔国師と同行す。国師嘗て帝に奏して他を詔せしむ。三たび詔すれども起たず。常に国師を罵る、名に耽り利を愛し、人間に恋著すと。
現代語訳
粛宗と代宗は、いずれも玄宗の子孫である。太子であったころから、いつも参禅を好んでいた。国に大盗賊が起こったため、玄宗はついに蜀へ逃れた。唐はもと長安を都としていたが、安禄山に占拠され、のちに洛陽を都とした。粛宗が政治をとった。このとき慧忠国師は鄧州の白崖山で庵に住んでいた。今の香厳寺の道場がそれである。四十年余り山を下りず、その道行は都にまで聞こえていた。上元二年、勅使に命じて宮中に招き入れ、師の礼をもって遇し、たいへん敬い重んじた。かつて皇帝のために無上の道を説いた。国師が朝廷を退くとき、皇帝は自ら車を引いて見送った。朝臣たちはみな不満の色を浮かべ、それが不都合であると奏上しようとした。国師は他人の心を知る神通を備えていたので、先に皇帝に会って奏上した。「わたしは帝釈天の前で、粟粒のように散らばる天子たちを見ましたが、稲妻の光のようにはかないものでした」。皇帝はいっそう敬い重んじた。代宗が即位すると、また招いて光宅寺にとどまらせること十六年、機に応じて法を説いた。大暦十年に遷化した。山南府青銼山の和尚は、昔、国師と同じく修行した仲間であった。国師はかつて皇帝に奏上して彼を召させたが、三度召しても応じなかった。そしていつも国師を、名声におぼれ利益を好み、世間に執着していると罵っていた。
解説
この章句が説くこと
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