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碧巌録 / 第十二則

這箇公案。多少人錯會。直是難咬嚼。無爾下口處。何故淡而無味。古人有多少答佛話。或云。殿裏底。或云。三十二相。或云。杖林山下竹筋鞭。及至洞山。却道麻三斤。不妨截斷古人舌頭。人多作話會道。洞山是時在庫下。秤麻。有僧問。所以如此答。有底道。洞山問東答西。有底道。爾是佛。更去問佛。所以洞山遶路答之。死漢更有一般道。只這麻三斤便是佛。且得沒交涉。爾若恁麼去洞山句下尋討。參到彌勒佛下生。也未夢見在。何故言語只是載道之器。殊不知古人意。只管去句中求。有什麼巴鼻。不見古人道。道本無言。因言顯道。見道即忘言。若到這裏。還我第一機來始得。只這麻三斤。一似長安大路一條相似。舉足下足。無有不是。這箇話。與雲門餬餅話。是一般。不妨難會。五祖先師頌云。賤賣擔板漢。貼秤麻三斤。千百年滯貨。無處著渾身。爾但打疊得情塵意想。計較得失是非。一時淨盡自然會去。

新字:這箇公案。多少人錯会。直是難咬嚼。無爾下口処。何故淡而無味。古人有多少答仏話。或云。殿裏底。或云。三十二相。或云。杖林山下竹筋鞭。及至洞山。却道麻三斤。不妨截断古人舌頭。人多作話会道。洞山是時在庫下。秤麻。有僧問。所以如此答。有底道。洞山問東答西。有底道。爾是仏。更去問仏。所以洞山遶路答之。死漢更有一般道。只這麻三斤便是仏。且得没交渉。爾若恁麼去洞山句下尋討。参到弥勒仏下生。也未夢見在。何故言語只是載道之器。殊不知古人意。只管去句中求。有什麼巴鼻。不見古人道。道本無言。因言顕道。見道即忘言。若到這裏。還我第一機来始得。只這麻三斤。一似長安大路一条相似。舉足下足。無有不是。這箇話。与雲門餬餅話。是一般。不妨難会。五祖先師頌云。賤売担板漢。貼秤麻三斤。千百年滞貨。無処著渾身。爾但打畳得情塵意想。計較得失是非。一時浄尽自然会去。

書き下し

這箇の公案、多少の人か錯つて会す。直に是れ咬嚼し難く、爾が口を下す処無し。何が故ぞ、淡くして味無ければなり。古人、仏に答ふる話多少か有る。或いは云く、殿裏底。或いは云く、三十二相。或いは云く、杖林山下の竹筋鞭。洞山に至るに及んで、却つて麻三斤と道ふ。妨げず、古人の舌頭を截断することを。人多く話会を作して道ふ、洞山是の時庫下に在りて麻を秤る。僧有りて問ふ、所以に此の如く答ふと。有る底は道ふ、洞山東を問へば西を答ふと。有る底は道ふ、爾は是れ仏なるに、更に去きて仏を問ふ、所以に洞山路を遶りて之に答ふと。死漢更に一般有りて道ふ、只だ這の麻三斤便ち是れ仏と。且つ没交渉なることを得たり。爾若し恁麼に洞山の句下に去きて尋討せば、参じて弥勒仏の下生に到るも、也た未だ夢にも見ざること在らん。何が故ぞ、言語は只だ是れ載道の器なり。殊に知らず、古人の意、只管に句中に去きて求む、什麼の巴鼻か有らん。見ずや、古人道ふ、道は本言無し、言に因りて道を顕す。道を見れば即ち言を忘る。若し這裏に到らば、我に第一機を還し来たりて始めて得ん。只だ這の麻三斤、一に長安の大路一条に似て相似たり。足を挙げ足を下す、是ならざること有ること無し。這箇の話、雲門の餬餅の話と是れ一般なり。妨げず会し難きことを。五祖先師頌して云く、賤売す担板漢、秤に貼す麻三斤。千百年の滞貨、渾身を著くるに処無し。爾但だ情塵意想、得失是非を計較することを打畳し得て、一時に浄尽せば、自然に会し去らん。

現代語訳

この公案は、どれほど多くの人が誤って理解してきたことか。まったく噛みしめようがなく、お前たちが口をつける余地もない。なぜか。淡くて味がないからである。古人が仏について答えた話はいくらでもある。ある人は「仏殿の中のあれだ」と言い、ある人は「三十二相だ」と言い、ある人は「杖林山の麓の竹の鞭だ」と言った。洞山に至って、かえって「麻三斤」と言った。古人の舌を断ち切ってしまったといってよい。多くの人は話の筋で理解して、「洞山はそのとき庫裏で麻を量っていた。そこへ僧が問うたので、こう答えたのだ」と言う。ある者は「洞山は東を問われて西を答えたのだ」と言い、ある者は「お前こそ仏なのに、さらに仏を問いに行く。だから洞山は回り道をして答えたのだ」と言う。死んだような連中はさらに「この麻三斤こそが仏なのだ」と言う。まったく見当違いである。お前たちがそのように洞山の言葉の下に探し求めるなら、弥勒仏が下生する時まで参じても、夢にも見ることはできまい。なぜか。言葉はただ道を載せる器にすぎない。古人の意図を知らず、ひたすら句の中に求めるばかりで、何の手がかりがあろうか。古人が「道はもともと言葉がない。言葉によって道を顕す。道を見たなら言葉を忘れる」と言ったのを知らないのか。もしここに至ったなら、わたしに第一の働きを返してよこして、はじめてよいのだ。この麻三斤は、まるで長安へ通じる一本の大道のようなもので、足を挙げても下ろしても、道でないところはない。この話は雲門の「胡麻餅」の話と同じで、なかなか理解しがたい。五祖法演先師は頌して言った。「片側しか見えぬ板担ぎの男に安売りし、秤に麻三斤を足してやる。千年百年売れ残った品で、身の置き所もない」。お前たちがただ、感情や思惑、損得や是非のはからいをすっかり片づけて、一度に洗い尽くしてしまえば、おのずと会得するだろう。

解説

圜悟の本則評唱である。麻三斤は淡くて味がなく、噛みようのない公案だと言い、世間の解釈を次々に退ける。洞山がちょうど麻を量っていたからだという事情説明も、東を問われて西を答えたという説も、麻三斤こそ仏だという説も、すべて見当違いである。言葉は道を載せる器にすぎず、道を見れば言葉は忘れるべきだと圜悟は説く。損得や是非のはからいを洗い尽くせば自然にわかるという結びは、答えを言葉の中に探す癖そのものを問題にしている。上司の一言の真意を言葉尻から推し量るばかりでは届かないことがある。言葉の背後の働きを見る稽古である。

この章句が説くこと

麻三斤言葉分別公案圜悟五祖

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