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碧巌録 / 第十則

雪竇不妨有為人處。若不是作者。只是胡喝亂喝。所以古人道。有時一喝不作一喝用。有時一喝却作一喝用。有時一喝如踞地獅子。有時一喝如金剛王寶劍。興化道。我見爾諸人。東廊下也喝。西廊下也喝。且莫胡喝亂喝。直饒喝得興化。上三十三天。却撲下來。氣息一點也無。待我甦醒起來。向汝道未在。何故。興化未曾向紫羅帳裏撤真珠。與爾諸人在。只管胡喝亂喝作什麼。臨濟道。我聞汝等。總學我喝。我且問爾。東堂有僧出。西堂有僧出。兩箇齊下喝。那箇是賓。那箇是主。爾若分賓主不得。已後不得學老僧。

新字:雪竇不妨有為人処。若不是作者。只是胡喝乱喝。所以古人道。有時一喝不作一喝用。有時一喝却作一喝用。有時一喝如踞地獅子。有時一喝如金剛王宝剣。興化道。我見爾諸人。東廊下也喝。西廊下也喝。且莫胡喝乱喝。直饒喝得興化。上三十三天。却撲下来。気息一点也無。待我甦醒起来。向汝道未在。何故。興化未曽向紫羅帳裏撤真珠。与爾諸人在。只管胡喝乱喝作什麼。臨済道。我聞汝等。総学我喝。我且問爾。東堂有僧出。西堂有僧出。両箇斉下喝。那箇是賓。那箇是主。爾若分賓主不得。已後不得学老僧。

書き下し

雪竇妨げず人の為にする処有ることを。若し是れ作者にあらずんば、只だ是れ胡喝乱喝せん。所以に古人道ふ、「有る時は一喝、一喝の用を作さず。有る時は一喝、却つて一喝の用を作す。有る時は一喝、踞地の獅子の如く、有る時は一喝、金剛王宝剣の如し」。興化道ふ、「我見る、爾諸人、東廊下にも也た喝し、西廊下にも也た喝す。且く胡喝乱喝すること莫れ。直饒ひ興化を喝得して、三十三天に上らしめ、却つて撲ち下し来つて、気息一点も也た無からしむるも、我が甦醒し起き来るを待つて、汝に向つて未在と道はん。何が故ぞ。興化未だ曾て紫羅帳裏に向つて真珠を撤して、爾諸人に与へざること在り。只管に胡喝乱喝して什麼をか作す」。臨済道ふ、「我聞く、汝等総て我が喝を学ぶと。我且く爾に問ふ、東堂に僧有つて出で、西堂に僧有つて出で、両箇斉しく喝を下す。那箇か是れ賓、那箇か是れ主。爾若し賓主を分ち得ずんば、已後老僧を学ぶことを得ざれ」。

現代語訳

雪竇にはなかなか人のためにするところがある。もし練達の者でなければ、ただむやみやたらに喝するだけである。だから古人は言った、「ある時の一喝は一喝のはたらきをなさない。ある時の一喝はかえって一喝のはたらきをなす。ある時の一喝は地にうずくまる獅子のようであり、ある時の一喝は金剛王の宝剣のようである」と。興化は言った、「わしが見るに、お前たちは東の廊下でも喝し、西の廊下でも喝している。むやみやたらに喝するのはやめよ。たとえわしを喝して三十三天まで吹き上げ、また叩き落として息も絶え絶えにしたとしても、わしは息を吹き返して起き上がるのを待って、お前に『まだまだだ』と言ってやろう。なぜか。わしはまだ紫の薄絹の帳の内で真珠をまいて、お前たちに与えたことがないからだ。ひたすらむやみに喝してどうするのか」と。臨済は言った、「聞けば、お前たちはみなわしの喝をまねているそうだ。では問おう。東の僧堂から僧が出て来、西の僧堂から僧が出て来て、二人同時に喝を下したら、どちらが賓(客)で、どちらが主か。お前たちがもし賓と主を分けられないなら、今後わしをまねてはならない」と。

解説

圜悟による頌の評唱の冒頭である。雪竇の頌には人のためを思う親切があると言い、練達の者でなければ喝はただのむやみな喝にすぎないと述べる。古人の言う喝のさまざまなはたらきを挙げたうえで、廊下のあちこちで喝する弟子たちを戒めた興化の言葉と、二人が同時に喝したらどちらが賓でどちらが主かと問うた臨済の言葉を引く。賓主を分けられない者はわしをまねるなという臨済の言葉は、本則の僧への痛烈な批評となっている。現代の働く者には、師や先輩の型をまねるだけでは、そのはたらきまでは身につかないことを教えている。

この章句が説くこと

胡喝乱喝賓主臨済模倣公案言葉

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