碧巌録 / 第九則
汾陽十八問中。此問謂之驗主問。亦謂之探拔問。這僧致箇問頭。也不妨奇特。若不是趙州。也難抵對他。這僧問如何是趙州。趙州是本分作家。便向道。東門西門南門北門。僧云。某甲不問這箇趙州。州云。爾問那箇趙州。後人喚作無事禪。賺人不少。何故他問趙州。州答云。東門西門南門北門。所以只答他趙州。爾若恁麼會。三家村裏漢。更是會佛法去。只這便是破滅佛法。如將魚目比況明珠。似則似是則不是。山僧道。不在河南。正在河北。且道是有事是無事。也須是子細始得。
新字:汾陽十八問中。此問謂之験主問。亦謂之探抜問。這僧致箇問頭。也不妨奇特。若不是趙州。也難抵対他。這僧問如何是趙州。趙州是本分作家。便向道。東門西門南門北門。僧云。某甲不問這箇趙州。州云。爾問那箇趙州。後人喚作無事禅。賺人不少。何故他問趙州。州答云。東門西門南門北門。所以只答他趙州。爾若恁麼会。三家村裏漢。更是会仏法去。只這便是破滅仏法。如将魚目比況明珠。似則似是則不是。山僧道。不在河南。正在河北。且道是有事是無事。也須是子細始得。
書き下し
汾陽の十八問の中、此の問を之を験主問と謂ひ、亦之を探抜問と謂ふ。這の僧箇の問頭を致す、也た妨げず奇特なることを。若し是れ趙州にあらずんば、也た他に抵対し難し。這の僧問ふ、「如何なるか是れ趙州」。趙州は是れ本分の作家、便ち向つて道ふ、「東門西門南門北門」。僧云く、「某甲這箇の趙州を問はず」。州云く、「爾那箇の趙州をか問ふ」。後人喚んで無事禅と作し、人を賺すこと少なからず。何が故ぞ。他趙州を問ひ、州答へて「東門西門南門北門」と云ふ、所以に只だ他に趙州を答ふと。爾若し恁麼に会せば、三家村裏の漢も、更に是れ仏法を会し去らん。只だ這れ便ち是れ仏法を破滅するなり。魚目を将て明珠に比況するが如く、似ることは則ち似たるも、是なることは則ち是ならず。山僧道ふ、「河南に在らず、正に河北に在り」。且く道へ、是れ有事か是れ無事か。也た須らく是れ子細にして始めて得べし。
現代語訳
汾陽の十八問の中では、この問いを験主問といい、また探抜問という。この僧が問いを持ち出したのは、なかなか見事である。もし趙州でなければ、彼に応じることは難しかったろう。この僧は「趙州とはどのようなものか」と問うた。趙州は本物の練達の師家であるから、すぐさま「東門、西門、南門、北門」と言った。僧が「私はこの趙州のことを問うているのではありません」と言うと、趙州は「お前はどの趙州を問うているのか」と言った。後の人はこれを無事禅と呼んで、少なからぬ人を欺いている。なぜかといえば、僧が趙州を問い、趙州が「東門西門南門北門」と答えたのだから、ただ彼に町の趙州を答えただけだ、と言うのである。お前がもしそのように理解するなら、片田舎の村人でさえ仏法がわかることになる。まさにこれこそ仏法を破滅させるものだ。魚の目玉を明珠になぞらえるようなもので、似ていることは似ているが、正しくはない。わしは言う、「河南にはない、まさに河北にある」と。さあ言ってみよ、これは有事か無事か。細心であってこそよいのだ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第九則挙す。僧、趙州に問ふ、「如何なるか是れ趙州」。州云く、「東門西門南門北門」。
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『碧巌録』第九則又人を問ふに似、又境を問ふに似て相似たり。趙州一糸毫をも移易せず、便ち他に向つて道ふ、「東門西門南門北門」。「爍迦羅眼纖埃を絶す」、此れ趙州の人境倶奪を頌す。句裏に向つて機を呈して他に与へて答ふ、此れ之を有機有境と謂ふ。纔かに転ずれば便ち他の心胆を照破す。若し此の如くならずんば、他の問頭を塞ぎ難し。爍迦羅眼とは、是れ梵語、此には堅固眼と云ひ、亦金剛眼と云ふ。照見無礙にして、唯だ千里に秋毫を明察するのみにあらず、亦乃ち邪を定め正を決し、得失を弁じ、機宜を別ち、休咎を識る。雪竇云く、「東西南北門相対す、無限の輪鎚撃てども開かず」。既に是れ無限の輪鎚、何が故ぞ撃てども開かざる。自ら是れ雪竇の見処此の如し。爾諸人又作麼生か此の門を開き去ることを得ん。請ふ参詳し看よ。
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『碧巌録』第九則句裏に機を呈して劈面に来る、爍迦羅眼纖埃を絶す。東西南北門相対す、無限の輪鎚撃てども開かず。
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『碧巌録』第二則這の僧出で来る、也た妨げず奇特なることを。趙州の空処を捉へて、便ち去いて他を拶す、「既に明白裏に在らずんば、箇の什麼をか護惜せん」。趙州更に棒を行ぜず喝を行ぜず、只だ道ふ、「我も亦た知らず」。若し是れ這の老漢にあらずんば、他に拶著せられて、往往に前を忘れ後を失せん。頼に是れ這の老漢、転身自在の処有り、所以に此の如く他に答ふ。如今の禅和子、問著すれば也た道ふ、「我も亦た知らず、不会」と。争奈せん途を同じうして轍を同じうせざることを。這の僧奇特の処有り、方に始めて問ふことを会す、「和尚既に知らずんば、什麼と為てか却つて明白裏に在らずと道ふ」。更に好き一拶なり。若し是れ別人ならば、往往に分疏不下ならん。趙州は是れ作家、只だ他に向つて道ふ、「事を問ふことは即ち得たり。礼拝し了つて退け」。這の僧依旧として這の老漢を奈何ともすること無く、只だ気を飲み声を呑むことを得たり。此れは是れ大手の宗師、爾と玄を論じ妙を論じ、機を論じ境を論ぜず、一向に本分の事を以て人を接す。所以に道ふ、「相罵らば爾が嘴を接ぐに饒し、相唾せば爾が水を潑ぐに饒す」。殊に知らず、這の老漢、平生棒喝を以て人を接せず、只だ平常の言語を以てすることを。只だ是れ天下の人奈何ともせず。蓋し他の平生許多の計較無きが為に、所以に横拈倒用、逆行順行、大自在を得たり。如今の人理会し得ず、只管に道ふ、「趙州答話せず、人の為に説かず」と。殊に知らず、当面に蹉過することを。
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『碧巌録』第九則這の僧恁麼に問ひ、趙州恁麼に答ふ。且く道へ、作麼生か摸索せん。恁麼も也た得ず、不恁麼も也た得ず。畢竟如何。這些子是れ難処なり。所以に雪竇拈出し来つて、当面に人に示す。趙州一日坐する次で、侍者報じて云く、「大王来れり」。趙州矍然として云く、「大王万福」。侍者云く、「未だ和尚に到らず」。州云く、「又来れりと道ふ」。参じて這裏に到り、見て這裏に到る、妨げず奇特なることを。南禅師拈じて云く、「侍者只だ客を報ずることを知つて、身の帝郷に在ることを知らず。趙州草に入つて人を求め、覚えず渾身泥水」。這些子の実処、諸人還つて知るや。雪竇の頌を看取せよ。
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『碧巌録』第五十九則趙州道ふ、「只だ這の至道無難唯嫌揀択」と。撃石火の如く、閃電光に似たり。擒縦殺活、恁麼に自在なることを得たり。諸方皆謂ふ、趙州に逸群の弁有りと。趙州尋常衆に示すに、此の一篇有りて云く、「至道無難、唯嫌揀択。纔かに語言有れば、是れ揀択、是れ明白。老僧は明白裏に在らず。是れ汝等還た護惜すや也た無しや」。時に僧有り問うて云く、「既に明白裏に在らずんば、箇の什麼をか護惜せん」。州云く、「我も亦た知らず」。僧云く、「和尚既に知らずんば、什麼としてか明白裏に在らずと道ふ」。州云く、「事を問ふことは即ち得たり。礼拝し了つて退け」。後来這の僧只だ他の釁罅の処を拈じ去つて他に問ふ。問ひ得ることも也た妨げず奇特なることを。争奈せん只だ是れ心行なることを。若し是れ別人ならば他を奈何ともし得ざらん。争奈せん趙州是れ作家なることを。便ち道ふ、「何ぞ這の語を引き尽くさざる」。這の僧も也た身を転じ気を吐くことを会し、便ち道ふ、「某甲只だ念じて這裏に到る」。一に安排せるに相似たり。趙州声に随つて拈起して便ち答へ、計較を須ひず。古人之を相続も也た大いに難しと謂ふ。竜蛇を弁じ休咎を別つは、他の本分の作家に還す。趙州這の僧の眼睛を換却し、鋒鋩を犯さず、計較を著けず、自然に恰好なり。爾喚んで有句と作すも也た得ず、喚んで無句と作すも也た得ず、喚んで不有不無句と作すも也た得ず。四句を離れ百非を絶す。何が故ぞ。若し此の事を論ぜば、撃石火の如く、閃電光に似たり。急に眼を著けて看て方に見ん。若し或いは擬議躊躇せば、喪身失命を免れず。雪竇頌して云く。
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