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碧巌録 / 第九則

遠錄公云。末後一句。始到牢關。指南之旨不在言詮。十日一風。五日一雨。安邦樂業。鼓腹謳歌。謂之太平時節。謂之無事。不是拍盲便道無事。須是透過關捩子。出得荊棘林。淨裸裸赤灑灑。依前似平常人。由爾有事也得。無事也得。七縱八橫。終不執無定有。有般底人道。本來無一星事。但只遇茶喫茶。遇飯喫飯。此是大妄語。謂之未得謂得。未證謂證。元來不曾參得透。見人說心說性說玄說妙。便道只是狂言。本來無事。可謂一盲引眾盲。

新字:遠録公云。末後一句。始到牢関。指南之旨不在言詮。十日一風。五日一雨。安邦楽業。鼓腹謳歌。謂之太平時節。謂之無事。不是拍盲便道無事。須是透過関捩子。出得荊棘林。浄裸裸赤灑灑。依前似平常人。由爾有事也得。無事也得。七縦八横。終不執無定有。有般底人道。本来無一星事。但只遇茶喫茶。遇飯喫飯。此是大妄語。謂之未得謂得。未証謂証。元来不曽参得透。見人説心説性説玄説妙。便道只是狂言。本来無事。可謂一盲引衆盲。

書き下し

遠録公云く、「末後の一句、始めて牢関に到る。指南の旨は言詮に在らず。十日に一風、五日に一雨、邦を安んじ業を楽しみ、腹を鼓して謳歌す。之を太平の時節と謂ひ、之を無事と謂ふ」。是れ拍盲にして便ち無事と道ふにあらず。須らく是れ関捩子を透過し、荊棘林を出得て、浄裸裸赤灑灑、依前として平常の人に似て、由爾として有事も也た得、無事も也た得、七縦八横、終に無を執し有を定めざるべし。有る般底の人道ふ、「本来一星の事無し、但只だ茶に遇へば茶を喫し、飯に遇へば飯を喫す」と。此れは是れ大妄語なり。之を未だ得ざるを得たりと謂ひ、未だ証せざるを証せりと謂ふと謂ふ。元来曾て参得透せず。人の心を説き性を説き玄を説き妙を説くを見て、便ち道ふ、「只だ是れ狂言、本来無事」と。謂つべし、一盲衆盲を引くと。

現代語訳

遠録公は言う、「最後の一句にして、はじめて堅固な関門に至る。指し示す趣旨は言葉の説明にはない。十日に一度風が吹き、五日に一度雨が降り、国は安らぎ人々は生業を楽しみ、腹鼓を打って歌う。これを太平の時節といい、これを無事という」。これは目をつぶったままで無事だと言うのではない。必ず関所の要を透り抜け、いばらの林を出て、すっかり裸で何の覆いもなく、以前のとおり平常の人のようでありながら、自在に、有事でもよく無事でもよく、縦横無尽で、ついに無に執われず有に定まらない、というのでなければならない。ある種の人は言う、「本来ひとかけらの事もない。ただ茶に会えば茶を飲み、飯に会えば飯を食うだけだ」と。これは大妄語である。まだ得ていないのに得たと言い、まだ証していないのに証したと言うものだ。もともと参じて透ったことがないのである。人が心を説き、性を説き、玄を説き、妙を説くのを見ると、すぐに「ただの狂言だ、本来無事なのだ」と言う。一人の盲人が多くの盲人を引いて行くと言うべきである。

解説

圜悟は遠録公の語を引き、風雨が時にかない人々が腹鼓を打って歌う太平の時節こそが真の無事だと示す。だがそれは目をつぶって無事と言うことではなく、関門を透り抜け、いばらの林を出て、裸のまま平常の人に戻ったうえで、有事でも無事でも自在であることだという。茶に遇えば茶を喫し、飯に遇えば飯を喫すと言うだけの者は、得てもいないのに得たと言う大妄語であり、一盲が衆盲を引くに等しいと厳しく断じる。現代の働く者には、「自然体」や「力まない」という言葉も、苦労を経ずに唱えれば単なる怠慢になるという警告として響く。

この章句が説くこと

無事平常妄語修行悟り太平

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