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碧巌録 / 第五則

雪竇自然見他古人。只消去他命脈上一劄。與他頌出。牛頭沒馬頭回。且道說箇什麼。見得透底。如早朝喫粥。齋時喫飯相似。只是尋常。雪竇慈悲。當頭一鎚擊碎。一句截斷。只是不妨孤峻。如擊石火似閃電光。不露鋒鋩無爾湊泊處。且道向意根下摸索得麼。此兩句一時道盡了也。雪竇第三句。却通一線道。略露些風規。早是落草。第四句。直下更是落草。若向言上生言。句上生句。意上生意。作解作會。不唯帶累老僧。亦乃辜負雪竇。古人句雖如此。意不如此。終不作道理繫縛人。曹溪鏡裏絕塵埃。多少人道。靜心便是鏡。且喜沒交涉。只管作計較道理。有什麼了期。這箇是本分說話。山僧不敢不依本分。牛頭沒馬頭回。雪竇分明說了也。自是人不見。所以雪竇如此郎當頌道。打鼓看來君不見。癡人還見麼。更向爾道。百花春至為誰開。可謂豁開戶牖。與爾一時八字打開了也。及乎春來。幽谷野澗。乃至無人處。百花競發。爾且道更為誰開。

新字:雪竇自然見他古人。只消去他命脈上一劄。与他頌出。牛頭没馬頭回。且道説箇什麼。見得透底。如早朝喫粥。斎時喫飯相似。只是尋常。雪竇慈悲。当頭一鎚撃砕。一句截断。只是不妨孤峻。如撃石火似閃電光。不露鋒鋩無爾湊泊処。且道向意根下摸索得麼。此両句一時道尽了也。雪竇第三句。却通一線道。略露些風規。早是落草。第四句。直下更是落草。若向言上生言。句上生句。意上生意。作解作会。不唯帯累老僧。亦乃辜負雪竇。古人句雖如此。意不如此。終不作道理繋縛人。曹渓鏡裏絶塵埃。多少人道。静心便是鏡。且喜没交渉。只管作計較道理。有什麼了期。這箇是本分説話。山僧不敢不依本分。牛頭没馬頭回。雪竇分明説了也。自是人不見。所以雪竇如此郎当頌道。打鼓看来君不見。痴人還見麼。更向爾道。百花春至為誰開。可謂豁開戸牖。与爾一時八字打開了也。及乎春来。幽谷野澗。乃至無人処。百花競発。爾且道更為誰開。

書き下し

雪竇自然に他の古人を見る、只だ他の命脈上に去いて一劄を消して、他の与に頌出す。「牛頭没し馬頭回る」。且く道へ、箇の什麼をか説く。見得透する底は、早朝に粥を喫し、斎時に飯を喫するが如くに相似たり、只だ是れ尋常なり。雪竇慈悲、当頭に一鎚に撃砕し、一句に截断す。只だ是れ妨げず孤峻なることを。石火を撃つが如く閃電光に似たり。鋒鋩を露はさず、爾が湊泊の処無し。且く道へ、意根下に向つて摸索し得んや。此の両句一時に道ひ尽し了れり。雪竇第三句、却つて一線道を通じて、略ぼ些かの風規を露はす。早く是れ落草なり。第四句、直下に更に是れ落草なり。若し言上に言を生じ、句上に句を生じ、意上に意を生じて、解を作し会を作さば、唯だ老僧を帯累するのみにあらず、亦乃ち雪竇に辜負せん。古人の句は此の如くなりと雖も、意は此の如くならず。終に道理を作して人を繋縛せず。「曹渓鏡裏塵埃を絶す」。多少の人か道ふ、「静心便ち是れ鏡」と。且喜すらくは没交渉。只管に計較道理を作す、什麼の了期か有らん。這箇は是れ本分の説話、山僧敢へて本分に依らずんばあらず。「牛頭没し馬頭回る」、雪竇分明に説き了れり。自ら是れ人見ず。所以に雪竇此の如く郎当として頌して道ふ、「鼓を打つて看来れども君見ず」。癡人還た見るや。更に爾に向つて道ふ、「百花春至つて誰が為にか開く」。謂つべし戸牖を豁開して、爾が与に一時に八字に打開し了れりと。春来るに及んで、幽谷野澗、乃至人無き処にも、百花競ひ発く。爾且く道へ、更に誰が為にか開く。

現代語訳

雪竇はおのずと古人を見抜いていて、ただその命脈の上に一刺しを加えるだけで頌に詠み出した。「牛頭が沈めば馬頭が戻ってくる」。さあ言ってみよ、何を説いているのか。見て透った者には、朝に粥を食べ、昼に飯を食べるようなもので、ただありふれたことである。雪竇は慈悲深く、真っ向から一鎚で打ち砕き、一句で断ち切った。ただし実に孤高で険しい。火打ち石の火花のようで、稲妻の光のようである。刃先を見せず、お前たちが取りつく所はない。さあ言ってみよ、意の根元で手探りできようか。この二句で一時に言い尽くしている。雪竇の第三句は、かえって一筋の道を通して、いささか趣を見せている。これはもう草に降りた(親切な)ものである。第四句は、ただちにさらに草に降りている。もし言葉の上に言葉を生じ、句の上に句を生じ、意の上に意を生じて、解釈をしたり理解をしたりすれば、この老僧を巻き込むばかりか、雪竇にも背くことになる。古人の句はこのようであっても、意はこのようではない。決して道理を作って人を縛りはしない。「曹渓の鏡の中には塵ひとつない」。どれほど多くの人が「心を静めることこそが鏡だ」と言うことか。まったく見当違いである。ひたすらはからいや道理を作っていて、いつ終わりが来るのか。これは本分の話であり、この山僧もあえて本分に依らないわけにはいかない。「牛頭が沈めば馬頭が戻ってくる」、雪竇ははっきりと説き終えている。ただ人が見ないだけである。だから雪竇はこのようにだらしないほど親切に頌して「太鼓を打って探してみても、君には見えない」と言った。愚か者よ、見えるか。さらにお前に向かって「百花は春が来て、誰のために咲くのか」と言った。窓や戸を大きく開け放って、お前のために一時に八の字に開いてみせたと言うべきである。春が来れば、奥深い谷や野の谷川、人のいない所にさえ、百花は競って咲く。お前たちよ、さあ言ってみよ、いったい誰のために咲くのか。

解説

圜悟による頌の評唱である。冒頭の「牛頭没し馬頭回る」は見て透った者には朝の粥や昼の飯のようにありふれたことであり、雪竇はこの二句で一鎚に打ち砕き、一句に断ち切ったと圜悟は言う。第三句・第四句は親切に草に降りて趣を見せたものだが、そこに言葉を重ねて解釈すれば雪竇に背くと戒める。曹渓の鏡を、心を静めることだと理屈で解くのも退ける。最後に、春が来れば人のいない谷にも百花は咲く、誰のために咲くのかと問いかける。見られることを求めずに咲く花こそ、ありのままの真実の姿である。現代の働く者には、誰も見ていない場所で手を抜かない仕事ぶりの尊さを思わせる一段である。

この章句が説くこと

百花本分日常言葉無心雪竇

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