兵法家伝書 / 無刀之卷心は色も形もなければ
心は色も形もなければ、目に元より見へぬ物なれども、着してとゞまれば、心が其まゝ見ゆる者也、たとへば、しらぎぬのごとく也、紅をうつしとむれば紅になり、紫を移せば、むらさきの色に成者也、人の心も、物にうつせば、あらはれ見ゆる也、兒若衆に心をうつせば、やがて人が見しる也、おもひ内にあれば、色外にあらはるゝ也、敵のはたらきをば、能く見て底心を留ば、兵法にまくべき也、心をとむなと云事に此偈を引用る也、下の二句は略して不記之、參學して全篇はしるべし、兵法には上の二句にてすむ事也
新字:心は色も形もなければ、目に元より見へぬ物なれども、着してとゞまれば、心が其まゝ見ゆる者也、たとへば、しらぎぬのごとく也、紅をうつしとむれば紅になり、紫を移せば、むらさきの色に成者也、人の心も、物にうつせば、あらはれ見ゆる也、児若衆に心をうつせば、やがて人が見しる也、おもひ内にあれば、色外にあらはるゝ也、敵のはたらきをば、能く見て底心を留ば、兵法にまくべき也、心をとむなと云事に此偈を引用る也、下の二句は略して不記之、参学して全篇はしるべし、兵法には上の二句にてすむ事也
書き下し
心は色も形もなければ、目に元より見へぬ物なれども、着してとゞまれば、心が其まゝ見ゆる者也、たとへば、しらぎぬのごとく也、紅をうつしとむれば紅になり、紫を移せば、むらさきの色に成者也、人の心も、物にうつせば、あらはれ見ゆる也、兒若衆に心をうつせば、やがて人が見しる也、おもひ内にあれば、色外にあらはるゝ也、敵のはたらきをば、能く見て底心を留ば、兵法にまくべき也、心をとむなと云事に此偈を引用る也、下の二句は略して不記之、參學して全篇はしるべし、兵法には上の二句にてすむ事也
現代語訳
心は色も形もないので、目にはもとより見えないものだが、着して止まれば、心がそのまま見える。たとえば白絹のようなものである。紅を移し留めれば紅になり、紫を移せば紫の色になる。人の心も、物に移せば現れて見える。児・若衆に心を移せば、やがて人が見て知る。思いが内にあれば、色が外に現れる。敵の働きをよく見て底心を留めれば、兵法に負けるであろう。心を留めるなということに、この偈を引用するのである。下の二句は略して記さない。参学して全篇は知るべきである。兵法には上の二句で足りることである。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻二亦云く、世俗の礼にも人の見ざる処、あるひは暗室の中なれども、衣服等をきかゆる時も、亦坐臥する時にも、放逸に隠処なんどをも蔵くさす無礼なるをば、天に慚ぢず鬼に慚ぢずとてそしるなり、只た人の見る時と同じく、かくすべき処をもかくし、はづべきことをもはづるなり、仏法の中も亦戒律かくのごとし、然あれば道者は内外を論ぜす、明暗を択はず、仏制を心に存して、人の見ず知らざればとて、悪事を行すべからざるなり、
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『童子問』卷上問ふ、学問は果たして性の内に在りや、性の外に在りやと。曰く、内外一致す。内は以て外を資け、外は以て内を養ふ。相無かるべからず。譬へば猶ほ人の一体のごとし。心思知慮は内なり、視聴動作は外なり。専ら心思知慮を貴びて、尽く視聴動作を廃するは、可ならんや。且つ生養の具の若きは、飲食薬餌より、以て宮室衣服、平生の合用、凡百の器具に至るまで、皆之を外に資らざること靡し。豈に独り学問に至りて、之を疑はんや。樹は土に非ざれば則ち生ぜず、魚は水に非ざれば則ち活きず。然れども樹と魚とに由りて之を見れば、則ち土と水とは皆外なり。然れども須臾も離るることを得ざるなり。人の学問、生養の具、何物か之を外に資らざらん。設若し其の外なるを以て之を棄てば、猶ほ樹の土を離れ、魚の水を去るがごとく、一日も生くることを得ず。其の不可なること必せり。人の五倫に於ける、父子の親、兄弟の睦と雖も、既に其の体を異にす。況んや君臣夫婦朋友は皆義を以て合ふ。豈に之を外と謂ひて可ならんや。凡そ内外の二字、古人の称する所と、後世の謂ふ所と、其の義適に別なり。所謂内とは之を親しむの辞、外とは之を疎んずるの辞なり。大学に外本内末と曰ひ、荘周に内聖外王と曰ふが若き、是れなり。性を以て内と為して、性に非ざる者を以て外と為して、之を棄つるに非ざるなり。告子の外義も、亦た義を以て外と為して之を行ふを謂ふ。棄てて用ひざるの謂に非ず。聖賢初めより内外の弁無し。其の内外の分を立つるは、後儒の陋説なり。
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