呻吟語 / 内篇・修身・內外の分に明らかなり
凡在我者都是分內底,在天、在人者都是分外底。學者要明於內外之分,則在內缺一分便是不成人處,在外得一分便是該知足處。
新字:凡在我者都是分内底,在天、在人者都是分外底。学者要明於内外之分,則在内欠一分便是不成人処,在外得一分便是該知足処。
書き下し
凡そ我に在る者は都て是れ分內底なり、天に在り人に在る者は都て是れ分外底なり。學者は內外の分に明らかなるを要す。則ち內に在りて一分を缺けば便ち是れ人と成らざる處、外に在りて一分を得れば便ち是れ該に足るを知るべき處なり。
現代語訳
自分にあるものはみな分内のものであり、天にあり人にあるものはみな分外のものです。学ぶ者は内と外の区別をはっきりさせねばなりません。そうすれば、内側で一分欠ければそれは人として成っていない所であり、外側で一分得られればそれは足るを知るべき所だと分かります。
解説
内と外で、同じ一分の扱いを正反対にします。内側の一分の欠けは人として失格の印であり、外側の一分の得は満足すべき収穫です。同じ数量なのに、向きによって意味がこれほど変わる。厳しくすべき場所と、満足すべき場所を取り違えている人が多いからこその整理でしょう。前の段の三つの管轄を、自分の側から言い直した形になっています。
この章句が説くこと
内外分知足自己基準
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