呻吟語 / 内篇・問學・外面に工夫を做す
古之學者在心上做工夫,故發之外面者為盛德之符;今之學者在外面做工夫,故反之於心則為實德之病。
新字:古之学者在心上做工夫,故発之外面者為盛徳之符;今之学者在外面做工夫,故反之於心則為実徳之病。
書き下し
古の學者は心上に工夫を做す。故に外面に發する者は盛德の符と為る。今の學者は外面に工夫を做す。故に之を心に反せば則ち實德の病と為る。
現代語訳
昔の学ぶ者は心の上で工夫をしました。だから外に現れるものは、盛んな徳のしるしになりました。今の学ぶ者は外側で工夫をします。だから心に立ち返れば、実の徳にとっての病になります。
解説
工夫の場所を心と外に分け、結果が正反対になることを示します。心で工夫すれば外に徳のしるしが現れ、外で工夫すれば内が病む。外側を整えること自体は同じなのに、どちらが起点かで意味が変わるというのです。前に出てきた、内側から出た厳しさと習った厳しさの違いと、同じ主題になっています。外側を整えるのは同じでも、起点が違えば意味が逆になります。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
内外起点徳病工夫
関連する章句
-
『呻吟語』内篇・修身・內外の分に明らかなり凡そ我に在る者は都て是れ分內底なり、天に在り人に在る者は都て是れ分外底なり。學者は內外の分に明らかなるを要す。則ち內に在りて一分を缺けば便ち是れ人と成らざる處、外に在りて一分を得れば便ち是れ該に足るを知るべき處なり。
-
『呻吟語』内篇・修身・纖徽毫末の間を敢へて問はんや內外の分は何處にか別白せん。況んや敢へて纖徽毫末の間を問はんや。
-
『呻吟語』内篇・談道・吾が心を内と為せば、則ち吾が身も亦た外物なり吾が身を以て内と為せば、則ち吾が身の外は皆外物なり。故に富貴利達は、生く可く榮ゆ可きも、苟くも道に非ざれば、君子居らず。吾が心を以て内と為せば、則ち吾が身も亦た外物なり。故に貧賤憂慼は、辱む可く殺す可きも、苟くも道ならば、君子辭せず。
-
『童子問』卷上問ふ、学問は果たして性の内に在りや、性の外に在りやと。曰く、内外一致す。内は以て外を資け、外は以て内を養ふ。相無かるべからず。譬へば猶ほ人の一体のごとし。心思知慮は内なり、視聴動作は外なり。専ら心思知慮を貴びて、尽く視聴動作を廃するは、可ならんや。且つ生養の具の若きは、飲食薬餌より、以て宮室衣服、平生の合用、凡百の器具に至るまで、皆之を外に資らざること靡し。豈に独り学問に至りて、之を疑はんや。樹は土に非ざれば則ち生ぜず、魚は水に非ざれば則ち活きず。然れども樹と魚とに由りて之を見れば、則ち土と水とは皆外なり。然れども須臾も離るることを得ざるなり。人の学問、生養の具、何物か之を外に資らざらん。設若し其の外なるを以て之を棄てば、猶ほ樹の土を離れ、魚の水を去るがごとく、一日も生くることを得ず。其の不可なること必せり。人の五倫に於ける、父子の親、兄弟の睦と雖も、既に其の体を異にす。況んや君臣夫婦朋友は皆義を以て合ふ。豈に之を外と謂ひて可ならんや。凡そ内外の二字、古人の称する所と、後世の謂ふ所と、其の義適に別なり。所謂内とは之を親しむの辞、外とは之を疎んずるの辞なり。大学に外本内末と曰ひ、荘周に内聖外王と曰ふが若き、是れなり。性を以て内と為して、性に非ざる者を以て外と為して、之を棄つるに非ざるなり。告子の外義も、亦た義を以て外と為して之を行ふを謂ふ。棄てて用ひざるの謂に非ず。聖賢初めより内外の弁無し。其の内外の分を立つるは、後儒の陋説なり。
-
『正法眼蔵随聞記』巻一答て云く、外相を飾らずとて、即ち放逸ならば亦是れ道理に差ふ、実徳を蔵すと云ふて、在家等の前にて悪行を現せば亦た是れ破戒の甚だしきなり、只希有の道心者、道者の由を人に知られんと思ひ、身にある失を人に知られじと思へども、諸天善神及び三宝の冥に知見する処なり、夫をば愧ずして、世人に貴とびられんと思ふ意ろを誠むるなり、只時にのぞみ事に触て、興法の為め利生の為に、諸事を斟酌すべきなり、擬して後に云ひ、思て後に行して、卒暴なること莫れとなり、
-
『呻吟語』内篇・談道・只だ內と本と有るのみ內外本末交ごも相培養す、此の語は余の未だ喻らざる所なり。只だ內と本と有るのみ。那の外と末とは張主し得ること甚ぞ。