呻吟語 / 内篇・問學・外面に工夫を做す
古之學者在心上做工夫,故發之外面者為盛德之符;今之學者在外面做工夫,故反之於心則為實德之病。
新字:古之学者在心上做工夫,故発之外面者為盛徳之符;今之学者在外面做工夫,故反之於心則為実徳之病。
書き下し
古の學者は心上に工夫を做す。故に外面に發する者は盛德の符と為る。今の學者は外面に工夫を做す。故に之を心に反せば則ち實德の病と為る。
現代語訳
昔の学ぶ者は心の上で工夫をしました。だから外に現れるものは、盛んな徳のしるしになりました。今の学ぶ者は外側で工夫をします。だから心に立ち返れば、実の徳にとっての病になります。
解説
工夫の場所を心と外に分け、結果が正反対になることを示します。心で工夫すれば外に徳のしるしが現れ、外で工夫すれば内が病む。外側を整えること自体は同じなのに、どちらが起点かで意味が変わるというのです。前に出てきた、内側から出た厳しさと習った厳しさの違いと、同じ主題になっています。外側を整えるのは同じでも、起点が違えば意味が逆になります。
この章句が説くこと
内外起点徳病工夫
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