配所残筆 / 配所殘筆24
何事にても其人之學問程には其道を合點可仕候、此故に聖學之筋には、文字も學問も不入、今日承候得ば今日之用事得心參候工夫も、持敬も靜坐も入不申事に候、さればたとへ言行正敷身を修て、千言萬句をそらんじ候者にても、是は雜學にて、聖學の筋にては無之候と分明に知候、又一言半句申候ても、聖學の筋目を知候人と知候、是定規を以正敷勘候故に候、只今終に不見不聞候事物之上にても、右之學筋にて尋候得ば、十ヶ條に五七ヶ條はしれ申候、俗學雜學之輩は、十ヶ條之內に三ヶ條共合點參間敷候、其段は我等愷に覺候、依之世上の無學成者に博學成者おとり候て、人に笑れ候事出來候樣に覺候、然者いかたなくして鐵炮の玉をけづり、定規なくして紙を直に裁んと仕候故、功勞して功なく、常々苦み候て、益更に無之、學を致候へば彌愚に成候樣に我等は覺候、學問之筋或は德を尊び仁をねり工夫靜坐を專と仕候も有之。或は身を修人をたゞし世を治平せしめ功成名高さあり。或は書物を好み著述詩文を專らと致すあり。此品上中下に分候て。樣々の心得に成行事に候。然に我等存候者。德を以て人物を感ぜしめ。物いはずして天下自正。垂衣裳而四海平。修文德而敵自感服せしめ候。黃帝堯舜之時代之義。末代之學び難き處なり。是をかた計似せ候ても。其しるし無之事なり。
新字:何事にても其人之学問程には其道を合点可仕候、此故に聖学之筋には、文字も学問も不入、今日承候得ば今日之用事得心参候工夫も、持敬も静坐も入不申事に候、さればたとへ言行正敷身を修て、千言万句をそらんじ候者にても、是は雑学にて、聖学の筋にては無之候と分明に知候、又一言半句申候ても、聖学の筋目を知候人と知候、是定規を以正敷勘候故に候、只今終に不見不聞候事物之上にても、右之学筋にて尋候得ば、十ヶ条に五七ヶ条はしれ申候、俗学雑学之輩は、十ヶ条之内に三ヶ条共合点参間敷候、其段は我等愷に覚候、依之世上の無学成者に博学成者おとり候て、人に笑れ候事出来候様に覚候、然者いかたなくして鉄炮の玉をけづり、定規なくして紙を直に裁んと仕候故、功労して功なく、常々苦み候て、益更に無之、学を致候へば弥愚に成候様に我等は覚候、学問之筋或は徳を尊び仁をねり工夫静坐を専と仕候も有之。或は身を修人をたゞし世を治平せしめ功成名高さあり。或は書物を好み著述詩文を専らと致すあり。此品上中下に分候て。様々の心得に成行事に候。然に我等存候者。徳を以て人物を感ぜしめ。物いはずして天下自正。垂衣裳而四海平。修文徳而敵自感服せしめ候。黄帝堯舜之時代之義。末代之学び難き処なり。是をかた計似せ候ても。其しるし無之事なり。
書き下し
何事にても其人之學問程には其道を合點可仕候、此故に聖學之筋には、文字も學問も不入、今日承候得ば今日之用事得心參候工夫も、持敬も靜坐も入不申事に候、さればたとへ言行正敷身を修て、千言萬句をそらんじ候者にても、是は雜學にて、聖學の筋にては無之候と分明に知候、又一言半句申候ても、聖學の筋目を知候人と知候、是定規を以正敷勘候故に候、只今終に不見不聞候事物之上にても、右之學筋にて尋候得ば、十ヶ條に五七ヶ條はしれ申候、俗學雜學之輩は、十ヶ條之內に三ヶ條共合點參間敷候、其段は我等愷に覺候、依之世上の無學成者に博學成者おとり候て、人に笑れ候事出來候樣に覺候、然者いかたなくして鐵炮の玉をけづり、定規なくして紙を直に裁んと仕候故、功勞して功なく、常々苦み候て、益更に無之、學を致候へば彌愚に成候樣に我等は覺候、學問之筋或は德を尊び仁をねり工夫靜坐を專と仕候も有之。或は身を修人をたゞし世を治平せしめ功成名高さあり。或は書物を好み著述詩文を專らと致すあり。此品上中下に分候て。樣々の心得に成行事に候。然に我等存候者。德を以て人物を感ぜしめ。物いはずして天下自正。垂衣裳而四海平。修文德而敵自感服せしめ候。黃帝堯舜之時代之義。末代之學び難き處なり。是をかた計似せ候ても。其しるし無之事なり。
現代語訳
何事についても、その人の学問の程度に応じてその道を理解できるものです。このため、聖学の筋では、文字も学問も要らず、今日聞けば今日の用事が納得できるのであり、そのための工夫も持敬も静坐も要りません。たとえ言行が正しく身を修め、千言万句を暗誦している者であっても、それは雑学であって聖学の筋ではないと、はっきり分かります。また、一言半句を述べただけでも、聖学の筋目を知る人だと分かります。これは定規をもって正しく見分けるからです。いま見も聞きもしていない事柄でも、右の学問の筋で尋ねれば、十か条のうち五、七か条は分かります。俗学・雑学の者たちは、十か条のうち三か条も納得できないでしょう。この点は、私にははっきり覚えがあります。このため、世間の無学な者に博学な者が劣り、人に笑われることも起こるように思います。型がないのに鉄砲の玉を削り、定規がないのに紙をじかに裁とうとするので、苦労しても成果がなく、いつも苦しんで益がまったくなく、学べばかえって愚かになるように私は思います。学問の筋には、徳を尊び仁を練り、工夫や静坐を専らにするものもあります。あるいは、身を修め人を正し、世を治めて功を成し名の高まるものもあります。あるいは書物を好み、著述や詩文を専らにするものもあります。これらは上・中・下に分かれて、さまざまな心得になっていきます。そのなかで私が思うのは、徳によって人物を感化し、物を言わずして天下が自ずから正しくなる、衣裳をたれて四海が平らぐ、文徳を修めて敵が自ずから感服する、という黄帝・堯舜の時代の道こそ、後の世にはいちばん学びがたいところだということです。これを形だけ真似ても、その効果はありません。
解説
この章句が説くこと
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『慎思録』巻之四衆人の人為る、草木禽獣の物為ると、其の生けるときは則ち異なりて、其の死するときは則ち同じ。何となれば則ち、衆人は下愚なりと雖も、其の生ける時は亦た皆五品の交はり、四民の業有り。且つ衣食の養、屋室の安有り。誠に禽獣と同じからず。其の既に死するに迨んでは、一たび腐壊に帰し、徳行の人に遺す無く、令名の世に伝はる無く、一時に漸く尽きて余り無し。草木禽獣と異なること無し。人為る者、豈に之を恥づることを知らざるべけんや。如し之を恥ぢば、学を為すに如くは無し。学びて得る有れば、則ち徳沢功名後世に流れて滅びず、虚生せずと為す。此れ君子の没後、衆人及び禽獣草木に異なる所以なり。
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『都鄙問答』卷之四・學者ノ行狀心得難キヲ問ノ段或ひと問ひて曰く、或所に幼年より学問し、四書五経は云ふに及ばず、何にても書物暗ずる程の徳有る人あり。然れども心得がたきこと多し。一事を挙げて云はゞ、金銀借用等に、不埒なること多し。夫ともに、手前にも倹約を守らるゝ上にて、是非なく不足あらば、他の了簡も有るべけれど、手前は取りじめなく、他人に不埒をなし、且つ親への事も、何とやら悪鋪ところ有りて、親の心に合はざれば、先づは不孝と云ふべきか。扠身の行作を見れば、物知り顔に我をたかぶり、弁舌は鮮なれども、聞きなれぬ挨拶にて、兎角耳に入りにくし。なにとやら寄りそひがたき風俗有りて、十人が九人までは嫌ふなり。是を以て見れば、親の気に入らぬも、尤なりと云ふ者多し。博学の徳有りて、加様なる身持あるは、如何なることぞ。
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