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配所残筆 / 配所殘筆23

或は慈悲を本に仕候得ば過去遠々の功德に成候と迄申候て、實は世間と學問とは別の事に成候、他人は存せず、我等は如斯存候故、是にては學問共至極と不被存候故、儒者佛者に右之所尋之、亦大德有之人と申候に右之品尋候而者、人の作略を見聞申候にも、世間とは不合、皆事物別に成候、神道は本朝之道に候へ共、舊記不分明事候、端斗知候て不全候、是に定て天下國家之要法も可有之候へ共、入鹿亂後舊記斷絶と相見え申候、依之我等事學に不審出來、廣く書を見、古の學者衆申置候儀共考候へ共、我等不審候條々埒明不申候間、定て我等料簡相違可有之存候て、數年此不審不分明候所、寛文之初我等存候は、漢唐宋明の學者之書を見候故合點不參候哉、直に周公孔子之書を見候て、是を手本に仕候て、學問の筋を正し可申存、夫より不通に後世の書物をば不用、聖人の書迄を晝夜勘候て、初て聖學之道筋分明得心仕候て、聖學之理を定候、たとへば紙を直にたつに、如何程細工能候ても、定規無之手に任候て立候へば、不殘ろくには不成候、又其身はろくに立候ても、人々に左樣に立せ候事は不成候所に、定規を當て裁候得は、大方幼若之者迄先其筋目の如くには裁之候、其間に尤上手下手有之候へ共、其筋目は一通りに參り候、然ば聖人の道筋は書を能得心仕候得ば、右之定規を知候故、

新字:或は慈悲を本に仕候得ば過去遠々の功徳に成候と迄申候て、実は世間と学問とは別の事に成候、他人は存せず、我等は如斯存候故、是にては学問共至極と不被存候故、儒者仏者に右之所尋之、亦大徳有之人と申候に右之品尋候而者、人の作略を見聞申候にも、世間とは不合、皆事物別に成候、神道は本朝之道に候へ共、旧記不分明事候、端斗知候て不全候、是に定て天下国家之要法も可有之候へ共、入鹿乱後旧記断絶と相見え申候、依之我等事学に不審出来、広く書を見、古の学者衆申置候儀共考候へ共、我等不審候条々埒明不申候間、定て我等料簡相違可有之存候て、数年此不審不分明候所、寛文之初我等存候は、漢唐宋明の学者之書を見候故合点不参候哉、直に周公孔子之書を見候て、是を手本に仕候て、学問の筋を正し可申存、夫より不通に後世の書物をば不用、聖人の書迄を昼夜勘候て、初て聖学之道筋分明得心仕候て、聖学之理を定候、たとへば紙を直にたつに、如何程細工能候ても、定規無之手に任候て立候へば、不残ろくには不成候、又其身はろくに立候ても、人々に左様に立せ候事は不成候所に、定規を当て裁候得は、大方幼若之者迄先其筋目の如くには裁之候、其間に尤上手下手有之候へ共、其筋目は一通りに参り候、然ば聖人の道筋は書を能得心仕候得ば、右之定規を知候故、

書き下し

或は慈悲を本に仕候得ば過去遠々の功德に成候と迄申候て、實は世間と學問とは別の事に成候、他人は存せず、我等は如斯存候故、是にては學問共至極と不被存候故、儒者佛者に右之所尋之、亦大德有之人と申候に右之品尋候而者、人の作略を見聞申候にも、世間とは不合、皆事物別に成候、神道は本朝之道に候へ共、舊記不分明事候、端斗知候て不全候、是に定て天下國家之要法も可有之候へ共、入鹿亂後舊記斷絶と相見え申候、依之我等事學に不審出來、廣く書を見、古の學者衆申置候儀共考候へ共、我等不審候條々埒明不申候間、定て我等料簡相違可有之存候て、數年此不審不分明候所、寛文之初我等存候は、漢唐宋明の學者之書を見候故合點不參候哉、直に周公孔子之書を見候て、是を手本に仕候て、學問の筋を正し可申存、夫より不通に後世の書物をば不用、聖人の書迄を晝夜勘候て、初て聖學之道筋分明得心仕候て、聖學之理を定候、たとへば紙を直にたつに、如何程細工能候ても、定規無之手に任候て立候へば、不殘ろくには不成候、又其身はろくに立候ても、人々に左樣に立せ候事は不成候所に、定規を當て裁候得は、大方幼若之者迄先其筋目の如くには裁之候、其間に尤上手下手有之候へ共、其筋目は一通りに參り候、然ば聖人の道筋は書を能得心仕候得ば、右之定規を知候故、

現代語訳

あるいは慈悲を本とすれば、遠い過去からの功徳になるとまで言いましたが、実際には世間と学問が別のことになってしまいます。他人のことは知りませんが、私はこのように思っていたので、これでは学問も究極とは思えず、儒者や仏者にこの点を尋ね、また大徳のある人と言われる人に尋ねても、その人の振る舞いを見聞きするにも、世間とは合わず、事と物が別になってしまいます。神道は本朝の道ですが、旧記がはっきりしないところがあり、端ばかりを知っていて全体を知ることができません。この中にはきっと天下国家の要法もあるのでしょうが、入鹿の乱の後に旧記が絶えたと見えます。そのため私は、学問に不審が出て、広く書を見、昔の学者衆の言い置いたことを考えましたが、不審の条々は埒が明きませんでした。きっと私の料簡の違いだろうと思い、数年この不審がはっきりしないままでしたが、寛文の初めに私は、漢・唐・宋・明の学者の書を見るから合点がいかないのか、直に周公・孔子の書を見て、これを手本にして、学問の筋を正そうと思いました。それから一切後世の書物は用いず、聖人の書までを昼夜考えて、初めて聖学の道筋がはっきりと得心でき、聖学の理を定めました。たとえば、紙をまっすぐに裁つのに、どれほど細工が上手でも、定規がなく、手に任せて裁てば、すべてがまともにはなりません。またその人自身はまともに裁てても、人々にそのように裁たせることはできないところ、定規を当てて裁てば、幼い者までまず大方その筋目のように裁つことができます。その間に上手下手はもちろんありますが、筋目は一通りに通ります。そうであれば、聖人の道筋は、書をよく得心すれば、この定規を知るからで、

解説

前の段に続き、仁や慈悲を本としても世間と学問が別になってしまった、という行き詰まりを素行は語ります。儒者・仏者に尋ねても、神道の旧記を探っても、不審は晴れなかったと言います。寛文の初めに、後世の注釈を離れ、直接周公・孔子の書に当たることで、初めて聖学の道筋が分かったと述べます。定規を当てて紙を裁つ譬えは、個人の腕前に頼らず、手本に頼ることで誰にでも筋目が通ることを示します。最後は譬えの途中で文が切れ、次の段に続きます。現代の組織でも、名人芸に頼る仕事を、基準やマニュアルに落とし込む場面に近く、個人の技を仕組みにする発想に通じます。

この章句が説くこと

定規原典聖学古学不審配所残筆

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