配所残筆 / 配所殘筆11
久世但馬守今度二萬石被下被召出候、此段大名に仰付られ候故願相叶申候由被仰候段、石谷土入物語候、扨近來我等ぞんじ候ても、寺澤志摩守殿へ天野源右衞門を八千石にて被召抱候、松平越中守殿へ吉村又右衞門を一萬石にて被召抱候、此者共名高き塲所一兩度有之候者に候、渡邊睡庵事藤堂泉州公へ浪人五萬石にて無之ば主取仕間敷候由申候、其身覺書にも其段記置候、此者は右兩人より度々武功塲數も有之、殊に一騎打之役儀より大勢之差引を心懸候者に候、此兩三輩皆我等存候、然に其方事戰國に生れ候はゞ武功之段は右之者におとり申間敷候、此段は力業に不相成事に候、第一博學多才、只今弘文院を差置、世上に有之間敷候、又聖學之筋目發明仕候事、異朝にさへ無之候間、古今に其方一人に候、我等事十二歲より兵學稽古仕候て、畠山殿弟子に相成、其流をきわめ、上泉流を習、上泉治部右衞門相傳を極め、其後尾畑勘兵衞殿弟子に相成、印可迄取候、北條安房守殿は猶以心安く、晝夜被仰談候、然に其方之影故、兵學之筋目初て能得心仕、難有被思召候故、其方へ別に誓紙を遺置候、然ば兵法之儀者無雙のやうに被存候、如斯上は五萬石望候共、
新字:久世但馬守今度二万石被下被召出候、此段大名に仰付られ候故願相叶申候由被仰候段、石谷土入物語候、扨近来我等ぞんじ候ても、寺沢志摩守殿へ天野源右衛門を八千石にて被召抱候、松平越中守殿へ吉村又右衛門を一万石にて被召抱候、此者共名高き塲所一両度有之候者に候、渡辺睡庵事藤堂泉州公へ浪人五万石にて無之ば主取仕間敷候由申候、其身覚書にも其段記置候、此者は右両人より度々武功塲数も有之、殊に一騎打之役儀より大勢之差引を心懸候者に候、此両三輩皆我等存候、然に其方事戦国に生れ候はゞ武功之段は右之者におとり申間敷候、此段は力業に不相成事に候、第一博学多才、只今弘文院を差置、世上に有之間敷候、又聖学之筋目発明仕候事、異朝にさへ無之候間、古今に其方一人に候、我等事十二歳より兵学稽古仕候て、畠山殿弟子に相成、其流をきわめ、上泉流を習、上泉治部右衛門相伝を極め、其後尾畑勘兵衛殿弟子に相成、印可迄取候、北条安房守殿は猶以心安く、昼夜被仰談候、然に其方之影故、兵学之筋目初て能得心仕、難有被思召候故、其方へ別に誓紙を遺置候、然ば兵法之儀者無双のやうに被存候、如斯上は五万石望候共、
書き下し
久世但馬守今度二萬石被下被召出候、此段大名に仰付られ候故願相叶申候由被仰候段、石谷土入物語候、扨近來我等ぞんじ候ても、寺澤志摩守殿へ天野源右衞門を八千石にて被召抱候、松平越中守殿へ吉村又右衞門を一萬石にて被召抱候、此者共名高き塲所一兩度有之候者に候、渡邊睡庵事藤堂泉州公へ浪人五萬石にて無之ば主取仕間敷候由申候、其身覺書にも其段記置候、此者は右兩人より度々武功塲數も有之、殊に一騎打之役儀より大勢之差引を心懸候者に候、此兩三輩皆我等存候、然に其方事戰國に生れ候はゞ武功之段は右之者におとり申間敷候、此段は力業に不相成事に候、第一博學多才、只今弘文院を差置、世上に有之間敷候、又聖學之筋目發明仕候事、異朝にさへ無之候間、古今に其方一人に候、我等事十二歲より兵學稽古仕候て、畠山殿弟子に相成、其流をきわめ、上泉流を習、上泉治部右衞門相傳を極め、其後尾畑勘兵衞殿弟子に相成、印可迄取候、北條安房守殿は猶以心安く、晝夜被仰談候、然に其方之影故、兵學之筋目初て能得心仕、難有被思召候故、其方へ別に誓紙を遺置候、然ば兵法之儀者無雙のやうに被存候、如斯上は五萬石望候共、
現代語訳
「久世但馬守が今度二万石を下され召し出されたのは、大名に仰せ付けられたので願いがかなった」と、石谷土入が語りました。さて近ごろ私が存じているところでも、寺沢志摩守殿は天野源右衛門を八千石で召し抱え、松平越中守殿は吉村又右衛門を一万石で召し抱えました。この者どもは、名高い場所を一、二度経験した者です。渡辺睡庵は藤堂泉州公に、浪人五万石でなければ主取りはしないと申しました。その身の覚書にもそのことが記してあります。この者は右の両人より度々の武功や場数があり、とくに一騎打ちの役目から大勢の差配までを心がけた者です。この三、四人は、みな私が存じています。ところで、そなたは、戦国に生まれていたなら、武功の面でも右の者に劣りはしなかったでしょう。これは力業でできることではありません。第一に博学多才で、ただ今、弘文院を除けば世間にいないでしょう。また聖学の筋目を明らかにしたことは、異朝にもないことで、古今にそなた一人です。私は十二歳から兵学の稽古をして、畠山殿の弟子となってその流を究め、上泉流を習い、上泉治部右衛門の相伝を極め、その後、尾畑勘兵衛殿の弟子となり、印可まで取りました。北条安房守殿とは、なおさら気安く、昼夜お話ししました。それでも、そなたのおかげで、兵学の筋目をはじめてよく納得し、ありがたく思い、そなたへ別に誓紙を遣わしてあります。ですから、兵法のことは無双のように思われます。このうえは、五万石を望んでも、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『大和俗訓』巻之五・言語一人をほめ毀ること、つつしんで過不及なかるべし。人の小悪を大悪に言ひなし、小過を大過に言ひなし、虚なることを実に言ひなすは、讒言なり。又左程なきことを、甚しく人をほめ過すも、正直の道にあらず。へつらひて其人に私するなり。誉めそしること、かるがるしくすべからず。たとへば権量を以て、物の軽重をはかるが如くなるべし。一毫もかろくし重くして、過不及あるべからず。誉むべからざる人をほめ、毀るべからざる人をそしり、或はほめ過し、そしり過すは、ともに不智なり。論語に子貢曰、君子は一言以て智とし、一言以て不智とす。言慎まずんばあるべからずといへり。よき人は、許可をつつしむとて、人をみだりにゆるしほめず。されども、小善をもすてず、一芸をも用ふるは、君子のする所なり。
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尉繚子・兵教上民をして国門の限を背にし、死生の分を決せしめ、之に死して疑はざるを教ふる者は、以有るなり。守る者をして必ず固く、戦ふ者をして必ず闘ひ、奸謀作らず、姦民語らず、令行はれて変無く、兵行はれて猜無く、軽き者は霆の若く、敵に奮ふこと驚くが若くせしむ。功を挙げ徳を別つこと、明らかなること白黒の如く、
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『甲陽軍鑑』品第四十爰におひて高坂弾正いはく、人をほむるも、そしるも我位ほどさたする時は被官といへども、よき者へは悪大将心ざし及ばさる故、めもさながらとゞかぬなり、惣別よき大将は三万·四万の人数をつれても五千の敵に気遣給ふ事、主の小人数にて大軍を引請、どこぞのつがひに切てとらんと思ふたる大身のむかしより、いかほど大きく成給ひて後までも気遣なさるゝ事、我意地にあてがひてかくの分なり、
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『配所残筆』配所殘筆(13)如此高ぶりたる事申候と可有之候、然處因州公御事は、御老年と申、御學問之義只今の御大名には無之候、其上紀伊守殿但馬守殿御家に諸家之名高者大勢被召抱、高知之者共罷在候、如斯者共之咄被爲聞、殊更兵學之儀兼而被仰聞候間、拙者躰御噂批判可仕候樣無之候、松浦公御事は因州公より少々御年下に被成御座候、御自分の御文學者無御座候へ共、晝夜書物等被聞召、文武之諸藝儒佛之御勤御怠不被成候、其上當代之古老衆每度御招請被成、御當家上方衆之近代之物語大分被成御存候、近年御家中に諸歷々方高知にて被差置、尤能者共御使立被成候、依て中根宋閑石谷士入常に被申候者、御家中之作法人の御使立被成候樣、若年には珍敷武將にて可有之由、度々被申候を、石谷市郎右衞門殿並拙者抔も承候事に候、然共此御兩公樣御事は、御自分より初御家中御領內迄之御作法御仕置無殘所候樣乍恐奉存候、然に一兩度者時の御挨拶と奉存候、度々被仰聞候事に御座候へば、拙者存念は立候て安堵仕候、拙者事御存被成御方々樣者、御分限不被成御座候、御存無之御方者、無途方者に可被思召候間、拙者事は當分永之浪人と覺悟候故、諸事逼塞仕罷在候所存に御座候由、其節申上候、
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『幽夢影』巻下・君子の鄙しむ所と爲る毋れ寧ろ小人の罵る所と爲るも、君子の鄙しむ所と爲る毋れ。寧ろ盲主司の擯棄する所と爲るも、諸名宿の知らざる所と爲る毋れ。
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論語・子張篇陳子禽、子貢に謂いて曰く、「子は恭を為すなり。仲尼豈に子より賢らんや。」子貢曰く、「君子は一言以て知と為し、一言以て不知と為す。言は慎まざる可からざるなり。夫子の及ぶ可からざるや、猶お天の階して升る可からざるがごときなり。夫子の邦家を得たらば、所謂『之を立つれば斯に立ち、之を道けば斯に行き、之を綏んずれば斯に来たり、之を動かせば斯に和す。其の生くるや栄え、其の死するや哀しむ』。之を如何ぞ其れ及ぶ可けんや。」
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