配所残筆 / 配所殘筆10
巳年播州赤穗へ罷上候時分、於大阪曾我丹波守殿拙者兵學之弟子に御座候故、別而御念頃に被成、御馳走被成、二三日滯留仕候、其時分板倉內膳殿御番故、丹波殿へ被仰合候て、九月廿一日丹波守殿にて內膳殿へ終日得御意候、翌年五月罷下り候時分、內膳殿急度振舞被申候て、道具給之候、內匠頭方に九年有之、存寄之子細御座候て書付を差上、子年大島雲八殿奉賴知行斷申上候て上候、其時分は加增迄可被申付候由に御留被成候得共、加增利祿之望にて知行斷申候にては無御座候由、達而斷申候て知行返納候、大島雲八殿具に御存被成候、知行斷申候て以後、間御座候て、淺野因州公本多備前守殿など私宅へ御出被成候時分、因州公仰られ候は、其方義以來は一萬石にて無之候はゞ何方へも奉公仕間敷候由兼而申候一段、尤に被思召候、古來戰國の時には陪臣に高知行取候者數多候、木村常陸介五萬石の時、木村惣左衞門五千石、長谷川藤五郎八萬石にて江口三郎右衞門坂井與右衞門一萬石宛取候、箇樣の事不珍候、結城中納言殿越前拜領被成候時分仰られ候は、御國を拜領被成候以前にかはり別而御滿足は無之難有被思召候事二箇條有之、其第一は年來分限廣候はゞ被召置度被思召候、
新字:巳年播州赤穂へ罷上候時分、於大阪曽我丹波守殿拙者兵学之弟子に御座候故、別而御念頃に被成、御馳走被成、二三日滞留仕候、其時分板倉内膳殿御番故、丹波殿へ被仰合候て、九月廿一日丹波守殿にて内膳殿へ終日得御意候、翌年五月罷下り候時分、内膳殿急度振舞被申候て、道具給之候、内匠頭方に九年有之、存寄之子細御座候て書付を差上、子年大島雲八殿奉頼知行断申上候て上候、其時分は加增迄可被申付候由に御留被成候得共、加增利禄之望にて知行断申候にては無御座候由、達而断申候て知行返納候、大島雲八殿具に御存被成候、知行断申候て以後、間御座候て、浅野因州公本多備前守殿など私宅へ御出被成候時分、因州公仰られ候は、其方義以来は一万石にて無之候はゞ何方へも奉公仕間敷候由兼而申候一段、尤に被思召候、古来戦国の時には陪臣に高知行取候者数多候、木村常陸介五万石の時、木村惣左衛門五千石、長谷川藤五郎八万石にて江口三郎右衛門坂井与右衛門一万石宛取候、箇様の事不珍候、結城中納言殿越前拝領被成候時分仰られ候は、御国を拝領被成候以前にかはり別而御満足は無之難有被思召候事二箇条有之、其第一は年来分限広候はゞ被召置度被思召候、
書き下し
巳年播州赤穗へ罷上候時分、於大阪曾我丹波守殿拙者兵學之弟子に御座候故、別而御念頃に被成、御馳走被成、二三日滯留仕候、其時分板倉內膳殿御番故、丹波殿へ被仰合候て、九月廿一日丹波守殿にて內膳殿へ終日得御意候、翌年五月罷下り候時分、內膳殿急度振舞被申候て、道具給之候、內匠頭方に九年有之、存寄之子細御座候て書付を差上、子年大島雲八殿奉賴知行斷申上候て上候、其時分は加增迄可被申付候由に御留被成候得共、加增利祿之望にて知行斷申候にては無御座候由、達而斷申候て知行返納候、大島雲八殿具に御存被成候、知行斷申候て以後、間御座候て、淺野因州公本多備前守殿など私宅へ御出被成候時分、因州公仰られ候は、其方義以來は一萬石にて無之候はゞ何方へも奉公仕間敷候由兼而申候一段、尤に被思召候、古來戰國の時には陪臣に高知行取候者數多候、木村常陸介五萬石の時、木村惣左衞門五千石、長谷川藤五郎八萬石にて江口三郎右衞門坂井與右衞門一萬石宛取候、箇樣の事不珍候、結城中納言殿越前拜領被成候時分仰られ候は、御國を拜領被成候以前にかはり別而御滿足は無之難有被思召候事二箇條有之、其第一は年來分限廣候はゞ被召置度被思召候、
現代語訳
巳年、播州赤穂へ上ったとき、大坂で曽我丹波守殿は私の兵学の弟子ですので、とくに念入りに馳走してくださり、二三日滞在しました。そのとき板倉内膳殿が番に当たっておられたので、丹波殿と示し合わせ、九月二十一日、丹波守殿のところで内膳殿に終日お目にかかりました。翌年五月に下る際、内膳殿が改めて振る舞いをされ、道具を下さいました。内匠頭方に九年おり、存じ寄りの子細があって書付を差し上げ、子年、大島雲八殿を通じて知行をお断りして上りました。そのときは加増までも申し付けようとお留めになりましたが、加増や利禄の望みで知行を断るのではないと、強くお断りして知行を返納しました。大島雲八殿が詳しくご存じです。知行をお断りしたのち、しばらくして、浅野因州公や本多備前守殿などが私宅へお越しになったとき、因州公が仰せられるには、「そなたは今後は一万石でなければどこへも奉公しないと、かねて申しているが、もっともなことだと思う。昔の戦国のころは、陪臣でも高い知行を取る者が数多くいた。木村常陸介が五万石の時、木村惣左衛門は五千石、長谷川藤五郎は八万石で、江口三郎右衛門・坂井与右衛門は一万石ずつ取った。こうしたことは珍しくない。結城中納言殿が越前を拝領された時に仰せられたことには、国を拝領する以前と違って格別の満足はなく、ありがたく思し召されることが二箇条あり、その第一は、年来、身代が広ければ召し置きたいとお思いになっていた者を召し置けることである」とのことです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第十四一上の剛强成る男の仕形は、平生も陣の時は猶ほ以て人にもかまはず働き、前にも我しはざを分別にて工夫し、其塲へ出ては機のきいたる才覚を以て手抦をせんと思ふより、人にも一円搆はぬ者なり、二中の機のきいたる男は上の人に負けまじと機をきいて馳り廻り、上の人におとりて見へぬ者なり、三下の男は只の儀もなく上中の人がゆかば、我等もまいらんとて、ふたりの人に目をつけてつきそひまはる者なり、四其外の男は皆人なみと申すなり、上の男は侍百人の中にふたり、中の男は百人の内に六人、下の男は百人の中に十二人、残て八十人は並なり、
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『徂徠先生答問書』卷中されば人々如此心懸候故、見え兼るもことわりにて候。足下も御先祖様の時代の事御聞可被成候。今の世より見候へば、其時分に名を申候能人と申候は皆疵物にて候。是別の子細に無御座候。其時分はぬり隠し申候事無御座候故、疵見え申候。疵見え申候得ば、人才は見え申候。今時も世上の悪俗に染不申候人は疵多く御座候間、疵物にならでは人才はなき物と被思召、疵物の内にて御ゑらび可被成候。疵もなく才も長じ候人を御尋候はゞ、最前申候御物ずきの注文と申物にて、疵なき人は郷原か巧言令色か扨は庸人と可被思召候。以上。
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尉繚子・武議兵を起こして直ちに甲冑をして蟣蝨(きしつ)を生ぜしむる者は、必ず吾が効用を為す所なり。鷙鳥の雀を逐ふに、人の懐を襲ひ、人の室に入る者有るは、生を出だすに非ざるなり、後ろに憚る有ればなり。太公望、年七十にして、牛を朝歌に屠り、食を盟津に売り、七十余を過ぐるも主聴かず、人人之を狂夫と謂ふなり。文王に遇ふに及びては、則ち三万の衆を提げ、一戦して天下定まる、武議に非ずんば安くんぞ能く此に合はんや。故に曰く、
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『政談』官位爵祿の次第並に勳階頭助允目の事且又役人を年久しく役換をさせねは、述懐することなく、其の役に器量相応にて、能く役儀のことを取り捌く人を外の役に替ふることは惜きことなり、是によりて一役に久しく仕置きて役換を申付ぬ時、加增か官位この外仕方なし、是上より下へ賜はりて下たるものに、勇まする道具少き故人を使ふに行支なるなり、町奉行、盗賊奉行なとをする人、役儀を能く勤めて外の役に換へ措しけれと、加增も度々はやられす、是非なく大目付などに役換をさせて、外の人を後役に申付たるとき、幾人申付けても初め大目付に役換をさせたる人の如き人なからんとき、又其人を元役に返すこと後へ歩むことなれは申付け難し、是は譬なり、外の役儀にも箇様なることあるへし、此差支皆な一役一席に立てたるより起りたるなり、
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『韓非子』難二第三十七桓公曰く、「吾聞く、人に君たる者は人を索むるに労し、人を使うに佚すと。吾仲父を得ること已に難し。仲父を得るの後、何為れぞ易からざらんや。」
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『甲陽軍鑑』品第十一一年前代駿河にて今川義元公の時、山本勘介三河国牛くほより今川殿へ奉公の望に参るといへども、彼山本勘介散々夫男にて、其上一眼指も不叶、足はちんばなり、然れども大剛の者なれば義元公へめしおかるゝ様にと広原勘介が宿成る故、おとなの朝比奈兵衛の尉をもつて申上げるは、彼の山本勘介大剛の者なり、殊更城とり陣取り一切の軍法を能く鍛練いたす、京流の兵法も上手なり、軍配をも存知仕つりたる者なりと申せとも、義元公かこへましまさず、駿河にてモヽ味の人の取りがといの山形は第一片輪者数取り服なり其法は其最を人数もとたずして何とて左様の義存ぜん、今川殿へ奉公に出て度きとて虚言を云ふなりと各申すにより、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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