群書治要 / 『群書治要』魏志・止謗は自修にしくはなし
夫毁譽、愛惡之原、而禍福之機也。是以聖人慎之。孔子曰:吾之於人、誰毁誰譽、如有所譽、必有所試、以聖人之德、猶尚如此、况庸庸之徒、而輕毁譽哉。昔伏波將軍馬援戒其兄子、言聞人之惡、當如聞父母之名、耳可得聞、口不可得道也。斯戒至矣。人或毁己、當退而求之於身、若己有可毁之行、則彼言當矣。若己無可毁之行、則彼言妄矣。當則無怨於彼、妄則無害於身、又何反報焉。且聞人毁己而忿者、惡醜聲之加人也。人報者滋甚、不如默而自修也。諺曰:救寒莫如重裘、止謗莫如自修、斯言信矣。
新字:夫毀誉、愛悪之原、而禍福之機也。是以聖人慎之。孔子曰:吾之於人、誰毀誰誉、如有所誉、必有所試、以聖人之徳、猶尚如此、況庸庸之徒、而軽毀誉哉。昔伏波将軍馬援戒其兄子、言聞人之悪、当如聞父母之名、耳可得聞、口不可得道也。斯戒至矣。人或毀己、当退而求之於身、若己有可毀之行、則彼言当矣。若己無可毀之行、則彼言妄矣。当則無怨於彼、妄則無害於身、又何反報焉。且聞人毀己而忿者、悪醜声之加人也。人報者滋甚、不如黙而自修也。諺曰:救寒莫如重裘、止謗莫如自修、斯言信矣。
書き下し
夫れ毀誉は、愛悪の原にして、禍福の機なり。是を以て聖人は之を慎む。孔子曰く、吾の人に於けるや、誰をか毀り誰をか誉めん。如し誉むる所有らば、必ず試みる所有り、と。聖人の徳を以てすら、猶お尚お此くの如し。況んや庸庸の徒にして、軽々しく毀誉せんや。昔、伏波将軍馬援、其の兄の子を戒めて、人の悪を聞くは、当に父母の名を聞くが如くすべし、耳は聞くを得可きも、口は道うを得可からず、と言う。斯の戒め至れり。人或いは己を毀らば、当に退きて之を身に求むべし。若し己に毀る可きの行い有らば、則ち彼の言は当たれり。若し己に毀る可きの行い無くんば、則ち彼の言は妄なり。当たれば則ち彼を怨む無く、妄なれば則ち身に害無し。又何ぞ反報せんや。且つ人の己を毀るを聞きて忿る者は、醜声の人に加わるを悪めばなり。人の報ゆる者滋々甚だしきは、黙して自ら修むるに如かざるなり。諺に曰く、寒きを救うは重裘に如くは莫く、謗りを止むるは自修に如くは莫し、と。斯の言信なり。
現代語訳
そもそも、そしることとほめることは、好き嫌いのもとであり、禍と福の分かれ目です。だから聖人はこれを慎みます。孔子は言いました。「私は人に対して、誰かをそしり、誰かをほめることがあろうか。もしほめることがあれば、必ず試してみたうえでのことだ。」聖人の徳をもってしてもなおこのとおりです。まして凡庸な者が、軽々しくそしったりほめたりしてよいでしょうか。昔、伏波将軍の馬援は、兄の子を戒めて、人の悪口を聞くときは、父母の名を聞くようにせよ、耳に入るのはよいが、口に出してはならない、と言いました。この戒めは行き届いています。人が自分をそしったなら、退いて原因を自分の中に求めるべきです。自分にそしられるべき行いがあれば、相手の言葉は当たっています。なければ、相手の言葉は誤りです。当たっていれば相手を恨むことはなく、誤りなら自分に害はありません。それなら、どうして言い返す必要があるでしょう。また、自分をそしる声を聞いて怒る者は、悪い評判が人に加わることを憎むからです。やり返すことがますますひどくなるくらいなら、黙って自分を修めるほうがよいのです。ことわざに言います。「寒さをしのぐには重ね着にまさるものはなく、悪口を止めるには自分を修めるにまさるものはない」と。この言葉は本当です。
解説

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伝習録・黄省曾録問う、「叔孫武叔、仲尼を毀る。大聖人も如何ぞ猶お毀謗を免れざるか」と。先生曰く、「毀謗は外より来たる的なり。聖人と雖も如何ぞ免れ得んや。人は只だ自ら修むるを貴しと為す。若し自己、実実落落として是れ個の聖賢ならば、縦然(たと)い人、都て他を毀るも、也(また)他を説き著けず。却って浮雲の日を揜うが若し。如何ぞ日の光明を損じ得んや。若し自己、是れ個の象恭色荘、不堅不介の的ならば、縦い一個の人も他を説く無きも、他の悪慝は終に須らく一日、発露すべし。所以に孟子は説く、『全きを求むるの毀り有り、虞(はか)らざるの誉れ有り』と。毀誉は外に在る的なり。安くんぞ避け得んや。只だ自ら修むること何如なるかを要するのみ」と。
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