群書治要 / 『群書治要』尚書・民は邦の本、本固ければ邦寧し
其一曰:民惟邦本、本固邦寧、予視天下愚夫愚婦、一能勝予、怨豈在明、不見是圖、予臨兆民、廪乎若朽索之馭六馬、為人上者、奈何弗敬。
新字:其一曰:民惟邦本、本固邦寧、予視天下愚夫愚婦、一能勝予、怨豈在明、不見是図、予臨兆民、廪乎若朽索之馭六馬、為人上者、奈何弗敬。
書き下し
其の一に曰く、民は惟れ邦の本、本固ければ邦寧し。予天下の愚夫愚婦を視るに、一も能く予に勝れり。怨み豈に明らかなるに在らんや、見えざるをこそ是れ図れ。予兆民に臨むこと、廩乎として朽ちたる索もて六馬を馭するが若し。人の上たる者、奈何ぞ敬せざらん。
現代語訳
その一に言います。民こそ国の根本です。根本がしっかりしていれば、国は安らかです。私が世の愚かな男女を見ても、一人ひとりが私よりも優れた点を持っています。民の怨みは、はっきり表に現れてから気づくのでは遅いのです。まだ見えないうちに対処すべきです。私が万民に臨む心持ちは、びくびくと、朽ちた縄で六頭立ての馬車を御するようなものです。人の上に立つ者が、どうして慎み敬わずにいられましょうか。
解説
夏の王太康は狩りに出たまま都に戻らず、民心を失って国を追われました。その五人の弟たちが洛水のほとりで、禹の戒めを思い出して歌ったのがこの一首とされます。民こそ国の根本であり、根が固ければ国は安泰だという言葉は、後世の民本思想の源としてよく引かれます。腐った縄で六頭立ての馬車を御するような危うさ、という為政者の比喩が印象的です。現代の組織でも、現場で働く人々や顧客という土台が揺らげば、上の戦略は成り立ちません。足元を支える人々の不満が、まだ見えないうちに気づけているかを問い直す一節です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
民惟邦本本固邦寧怨み朽索六馬民本
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『新書』大政上之を政に聞くに、民は本と為さざる無きなり。国は以て本と為し、君は以て本と為し、吏は以て本と為す。故に国は民を以て安危とし、君は民を以て威侮とし、吏は民を以て貴賤とす。此れ之を民の本と為さざる無しと謂うなり。之を政に聞くに、民は命と為さざる無きなり。国は以て命と為し、君は以て命と為し、吏は以て命と為す、故に国は民を以て存亡とし、君は民を以て盲明とし、吏は民を以て賢不肖とす。此れ之を民の命と為さざる無しと謂うなり。之を政に聞くに、民は功と為さざる無きなり。故に国は以て功と為し、君は以て功と為し、吏は以て功と為す。国は民を以て興壊とし、君は民を以て強弱とし、吏は民を以て能不能とす。此れ之を民の功と為さざる無しと謂うなり。之を政に聞くに、民は力と為さざる無きなり。故に国は以て力と為し、君は以て力と為し、吏は以て力と為す。故に夫れ戦の勝つや、民の勝たんと欲すればなり。攻の得るや、民の得んと欲すればなり。守の存するや、民の存せんと欲すればなり。故に民を率いて守るも、民存せんと欲せざれば、則ち能く以て存する莫し。故に民を率いて攻むるも、民得んと欲せざれば、則ち能く以て得る莫し。故に民を率いて戦うも、民勝たんと欲せざれば、則ち能く以て勝つ莫し。
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抱朴子外篇・君道夫れ根深ければ則ち末盛んなり、下楽しめば則ち上安し。馬調わざれば、造父も千里の跡に超ゆる能わず、民附かざれば、唐虞も同天の美を致す能わず。馬極まれば則ち変態生じ、傾僨惟れ憂う。民困しめば則ち離叛多く、其の禍必ず振う。戦戦として以て旦を待たざる可けんや。栗栗として危うきを慮らざる可けんや。人主、治乱に思いを澄まさず、亡徴を深く鑑みざれば、百尋の秋毫を盼み、耳は八音の清濁に精しく、文は則ち琳瑯筆端に墮ち、武は則ち鉤鉻指掌に摧くと雖も、心は万篇の誦を苞み、口は濤波の辯を播くも、猶お土崩に補い無く、瓦解を救わず。何となれば、其の大に居らずして其の細に務め、下人の業に滞りて、元本の端に暗ければなり。
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