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艮斎閑話抄録 / 覚悟ある人は事変に動じない

覺悟ある人は事變に臨て驚かず、覺悟なき人は狼狽して度を失ふなり、一點の火にても思ひ寄ざる寸手に當れば驚きて色を變ず、大の灸にても覺悟して炷すれば驚くとなし、古人の書を讀み人物の邪正得失を辨じ、治亂興廢の迹を觀るは、皆我覺悟する工夫なり、道に古今無く理に內外無し、事迹は同からざれども、道理は一に歸するなり、今川義元戰塲にて何某を召し斥候に遣す、先陣戰始りし所なれば逃れ難く、鎗を交へ首一級を得て返る、義元大に怒り、敵勢を覘ひ速に歸るべしと命ぜしに、己の功を貪り忠義の心無し、軍法に行ふべしとあり、彼士しほれたる體にて側の人に低聲にて、家隆の歌に、刈萱に身にしむ色は無れども見て捨難き露の下折れ、かく唱へしかば、義元益怒り何にを云ふとありしに、侍臣其事を告しかば、暫く沈吟して忽怒色霽れ、屆ざるとなれども、急猝の間に家隆の歌を思ひ出せしと、名譽なりとて罪を赦たり、此人は急猝の間に古歌を引、志を述しは覺悟ある人なり、立花龍虎齋常に息女に敎へ玉ひしは、女なりとも士の妻たる者、事ある座に居合せたる時、取亂したる體は見苦さなり、左樣の時はかゝる座に居合せたる事誠に冥加の事かなと先づ思ふべし、さて其後に事いかよふとも相應に取計べし、若しいか成ると動轉するゆへ、取亂したる體も有るなりと敎へられしは、意味深き名言なり、

新字:覚悟ある人は事変に臨て驚かず、覚悟なき人は狼狽して度を失ふなり、一点の火にても思ひ寄ざる寸手に当れば驚きて色を変ず、大の灸にても覚悟して炷すれば驚くとなし、古人の書を読み人物の邪正得失を弁じ、治乱興廃の迹を観るは、皆我覚悟する工夫なり、道に古今無く理に内外無し、事迹は同からざれども、道理は一に帰するなり、今川義元戦塲にて何某を召し斥候に遣す、先陣戦始りし所なれば逃れ難く、鎗を交へ首一級を得て返る、義元大に怒り、敵勢を覘ひ速に帰るべしと命ぜしに、己の功を貪り忠義の心無し、軍法に行ふべしとあり、彼士しほれたる体にて側の人に低声にて、家隆の歌に、刈萱に身にしむ色は無れども見て捨難き露の下折れ、かく唱へしかば、義元益怒り何にを云ふとありしに、侍臣其事を告しかば、暫く沈吟して忽怒色霽れ、届ざるとなれども、急猝の間に家隆の歌を思ひ出せしと、名誉なりとて罪を赦たり、此人は急猝の間に古歌を引、志を述しは覚悟ある人なり、立花竜虎斎常に息女に教へ玉ひしは、女なりとも士の妻たる者、事ある座に居合せたる時、取乱したる体は見苦さなり、左様の時はかゝる座に居合せたる事誠に冥加の事かなと先づ思ふべし、さて其後に事いかよふとも相応に取計べし、若しいか成ると動転するゆへ、取乱したる体も有るなりと教へられしは、意味深き名言なり、

書き下し

覺悟ある人は事變に臨て驚かず、覺悟なき人は狼狽して度を失ふなり、一點の火にても思ひ寄ざる寸手に當れば驚きて色を變ず、大の灸にても覺悟して炷すれば驚くとなし、古人の書を讀み人物の邪正得失を辨じ、治亂興廢の迹を觀るは、皆我覺悟する工夫なり、道に古今無く理に內外無し、事迹は同からざれども、道理は一に歸するなり、今川義元戰塲にて何某を召し斥候に遣す、先陣戰始りし所なれば逃れ難く、鎗を交へ首一級を得て返る、義元大に怒り、敵勢を覘ひ速に歸るべしと命ぜしに、己の功を貪り忠義の心無し、軍法に行ふべしとあり、彼士しほれたる體にて側の人に低聲にて、家隆の歌に、刈萱に身にしむ色は無れども見て捨難き露の下折れ、かく唱へしかば、義元益怒り何にを云ふとありしに、侍臣其事を告しかば、暫く沈吟して忽怒色霽れ、屆ざるとなれども、急猝の間に家隆の歌を思ひ出せしと、名譽なりとて罪を赦たり、此人は急猝の間に古歌を引、志を述しは覺悟ある人なり、立花龍虎齋常に息女に敎へ玉ひしは、女なりとも士の妻たる者、事ある座に居合せたる時、取亂したる體は見苦さなり、左樣の時はかゝる座に居合せたる事誠に冥加の事かなと先づ思ふべし、さて其後に事いかよふとも相應に取計べし、若しいか成ると動轉するゆへ、取亂したる體も有るなりと敎へられしは、意味深き名言なり、

現代語訳

覚悟のある人は事変に臨んでも驚かず、覚悟のない人はうろたえて度を失います。一点の火でも思いがけず肌に当たれば驚いて顔色を変えますが、大きな灸でも覚悟してすえれば驚くことはありません。古人の書を読んで人物の善悪や得失を見分け、治乱興廃の跡を観察するのは、みな自分が覚悟を定めるための工夫です。道に古今はなく、理に内外はありません。事の跡は同じでなくても、道理は一つに帰します。今川義元が戦場で、ある者を呼んで斥候に遣わしました。先陣の戦いが始まったところで逃れがたく、その者は槍を交えて首を一つ取って帰りました。義元は大いに怒り、「敵の様子を探って速やかに帰れと命じたのに、自分の手柄を貪って忠義の心がない。軍法によって処罰する」と言いました。その士はしおれた様子で、そばの人に低い声で、藤原家隆の歌「刈萱に身にしむ色はなけれども見て捨てがたき露の下折れ」と唱えました。義元はますます怒って「何を言うか」と言いましたが、侍臣がそのことを告げると、しばらく考えて急に怒りの色が晴れ、「届かぬことではあるが、突然のことに家隆の歌を思い出したのは名誉なことだ」と言って罪を赦しました。この人はとっさの間に古歌を引いて志を述べており、覚悟のある人です。立花龍虎斎が常に娘に教えたのは、「女であっても武士の妻たる者は、事のある席に居合わせたとき、取り乱した様子は見苦しい。そのようなときは、このような席に居合わせたのは本当に幸いなことだと、まず思うべきである。その後で、事がどうなっても相応に取り計らうとよい。もしどうなるかと動揺するから、取り乱した様子も出るのである」ということで、意味深い名言です。

解説

覚悟とは、予想外の出来事に出会う前に、心の準備を整えておくことだと説く章句です。古人の書を読み、人や世の盛衰を学ぶことが、その工夫だとされています。今川義元の前でとっさに古歌を引いた士や、「居合わせたことを幸いと思え」という立花龍虎斎の教えは、動揺を静める思考の型を示しています。管理職は、トラブルや突然の報告に接した時、まず落ち着いて受け止める習慣を持つことが大切です。過去の失敗事例や歴史に学び、あらかじめ対応の筋道を持っておけば、現場も安心して動けます。

この章句が説くこと

艮斎閑話抄録安積艮斎覚悟動じない心今川義元立花竜虎斎

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