艮斎閑話抄録 / 慎重さと平松金次郎の一番槍
梁の韋叡北魏と戰ふ時、堰を築き水を引き、堅固に陣を搆て容易に合戰せず、或人餘り臆病なりと笑しかば、韋叡大將たる者專ら勇を振べからず、臆病の時もあるべしと、長篠の戰に織田信長三重に柵を搆へ鐵炮を幷べ、甲州の猛士を打殺せしは臆病のようなれども、兵畧に通じ愼深しと謂べし、此時甲州の馬塲信房、山縣昌景等は、敵新に來り其勢銳し、戰はずして避くるにしかずと諫しに、長坂調閑、跡部勝資云ふ、一戰して兩敵に勝は今日に在り、臆病なる計を聽べからず、勝賴其言を用ひ血氣の勇を奮しかば大に敗北せり、平松金次郎は平日臆病なりと、人侮り笑ひ一所に刀を置ざりき、平松少も怒らず謙恭を守れり、長久手の戰に森武藏守三千の精兵黑雲の捲來る勢にて攻掛る、鬼武藏の勇にや畏けん、諸士踏こみ槍を入る者なし、唯平松一人奮然として進み、一番槍を合せ大功を顯せり、此後平松諸士に向ひ、我は喧嘩に甚臆病なれども、戰塲にては大剛の士なり、諸士其心得にて交るべしと云はれしは、感稱に堪へず、士は平生吾身を守り、忠義を盡さんと思ひ、必喧嘩口論にて身を失ふべからず、金時の臆病稽古せよと云ふ意味誠に深かし、
新字:梁の韋叡北魏と戦ふ時、堰を築き水を引き、堅固に陣を搆て容易に合戦せず、或人余り臆病なりと笑しかば、韋叡大将たる者専ら勇を振べからず、臆病の時もあるべしと、長篠の戦に織田信長三重に柵を搆へ鉄炮を幷べ、甲州の猛士を打殺せしは臆病のようなれども、兵略に通じ慎深しと謂べし、此時甲州の馬塲信房、山県昌景等は、敵新に来り其勢鋭し、戦はずして避くるにしかずと諫しに、長坂調閑、跡部勝資云ふ、一戦して両敵に勝は今日に在り、臆病なる計を聴べからず、勝頼其言を用ひ血気の勇を奮しかば大に敗北せり、平松金次郎は平日臆病なりと、人侮り笑ひ一所に刀を置ざりき、平松少も怒らず謙恭を守れり、長久手の戦に森武蔵守三千の精兵黒雲の捲来る勢にて攻掛る、鬼武蔵の勇にや畏けん、諸士踏こみ槍を入る者なし、唯平松一人奮然として進み、一番槍を合せ大功を顕せり、此後平松諸士に向ひ、我は喧嘩に甚臆病なれども、戦塲にては大剛の士なり、諸士其心得にて交るべしと云はれしは、感称に堪へず、士は平生吾身を守り、忠義を尽さんと思ひ、必喧嘩口論にて身を失ふべからず、金時の臆病稽古せよと云ふ意味誠に深かし、
書き下し
梁の韋叡北魏と戰ふ時、堰を築き水を引き、堅固に陣を搆て容易に合戰せず、或人餘り臆病なりと笑しかば、韋叡大將たる者專ら勇を振べからず、臆病の時もあるべしと、長篠の戰に織田信長三重に柵を搆へ鐵炮を幷べ、甲州の猛士を打殺せしは臆病のようなれども、兵畧に通じ愼深しと謂べし、此時甲州の馬塲信房、山縣昌景等は、敵新に來り其勢銳し、戰はずして避くるにしかずと諫しに、長坂調閑、跡部勝資云ふ、一戰して兩敵に勝は今日に在り、臆病なる計を聽べからず、勝賴其言を用ひ血氣の勇を奮しかば大に敗北せり、平松金次郎は平日臆病なりと、人侮り笑ひ一所に刀を置ざりき、平松少も怒らず謙恭を守れり、長久手の戰に森武藏守三千の精兵黑雲の捲來る勢にて攻掛る、鬼武藏の勇にや畏けん、諸士踏こみ槍を入る者なし、唯平松一人奮然として進み、一番槍を合せ大功を顯せり、此後平松諸士に向ひ、我は喧嘩に甚臆病なれども、戰塲にては大剛の士なり、諸士其心得にて交るべしと云はれしは、感稱に堪へず、士は平生吾身を守り、忠義を盡さんと思ひ、必喧嘩口論にて身を失ふべからず、金時の臆病稽古せよと云ふ意味誠に深かし、
現代語訳
梁の韋叡は北魏と戦うとき、堰を築いて水を引き、堅固に陣を構えて容易に合戦をしませんでした。ある人があまりに臆病だと笑うと、韋叡は「大将たる者はもっぱら勇を振るってはならない。臆病であるべき時もある」と言いました。長篠の戦いで織田信長が三重に柵を構えて鉄砲を並べ、甲州の猛士を討ち取ったのは、臆病のようですが、兵略に通じ慎み深いというべきです。このとき甲州の馬場信房、山県昌景らは「敵は新たに来て勢いが鋭い。戦わずに避けるのがよい」と諫めましたが、長坂調閑、跡部勝資は「一戦して両方の敵に勝つのは今日にある。臆病な計略を聞いてはならない」と言い、勝頼はその言葉を用いて血気の勇を奮ったため、大いに敗北しました。平松金次郎は普段から臆病だと人に侮られ笑われ、同じ場所に刀を置いてもらえませんでしたが、少しも怒らず謙虚に慎んでいました。長久手の戦いで、森武蔵守が三千の精兵を黒雲が巻き起こるような勢いで攻め掛けてきたとき、鬼武蔵の勇に畏れたのか、諸士は踏み込んで槍を入れる者がいませんでした。ただ平松一人が奮然と進み、一番槍を合わせて大功を立てました。後に平松は諸士に向かい「私は喧嘩にはたいへん臆病だが、戦場では大剛の士である。皆もその心得で交際されよ」と言ったそうで、感心せずにはいられません。武士は平生は我が身を守り、忠義を尽くそうと思い、決して喧嘩口論で身を失ってはなりません。金時の「臆病稽古せよ」という意味は、まことに深いものです。
解説
この章句が説くこと
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