艮斎閑話抄録 / 臆病稽古という真の勇者の心得
江府は大都會にて五方の士民輻湊の地なれば、途中にて無禮を行ふ者もあるべし、然るに其無禮を責て口論となり、遂に殺傷に及は大なる痴漢なり、尤も格外に無禮甚しく、士道の疵になるは容忍しがたきともあれども、大體は宥免すべし、昔し或人、坂田の金時に勇士に成るべき工夫を問しに、臆病稽古せよと敎たる事、星野葛山の武學拾粹に見へたり、是は深き意味あることにて、凡そ勇士と云は愼み深き者にて、能く事理の輕重を辨じ、危き所に近よらず、人立多き所に行かず、堪忍を第一として喧嘩口論をなさず、人に對し無禮を行はず、人無禮なることありても敢て怒り取合はず、如此身を大切に守るは、吾身は君へ奉りし者にて、我自由にならざるゆへ、君の用に立べき爲なり、且つ愼無き者は油斷多く、人その透間に乘ずるとあれども、如此堅固に身を守るゆへ金城湯池の如く攻入る所なし、一旦君の爲に勇を發する時は、其忠誠純一の氣金石を貫き鐵壁を摧べし、是を眞の勇士と稱するなり、血氣の勇を好み爭鬪を喜ぶものは下郎の勇にして犬死にするとあるべし、但士のみに非ず、古の名將は愼深く臆病なる者なり、
新字:江府は大都会にて五方の士民輻湊の地なれば、途中にて無礼を行ふ者もあるべし、然るに其無礼を責て口論となり、遂に殺傷に及は大なる痴漢なり、尤も格外に無礼甚しく、士道の疵になるは容忍しがたきともあれども、大体は宥免すべし、昔し或人、坂田の金時に勇士に成るべき工夫を問しに、臆病稽古せよと教たる事、星野葛山の武学拾粋に見へたり、是は深き意味あることにて、凡そ勇士と云は慎み深き者にて、能く事理の軽重を弁じ、危き所に近よらず、人立多き所に行かず、堪忍を第一として喧嘩口論をなさず、人に対し無礼を行はず、人無礼なることありても敢て怒り取合はず、如此身を大切に守るは、吾身は君へ奉りし者にて、我自由にならざるゆへ、君の用に立べき為なり、且つ慎無き者は油断多く、人その透間に乗ずるとあれども、如此堅固に身を守るゆへ金城湯池の如く攻入る所なし、一旦君の為に勇を発する時は、其忠誠純一の気金石を貫き鉄壁を摧べし、是を真の勇士と称するなり、血気の勇を好み争闘を喜ぶものは下郎の勇にして犬死にするとあるべし、但士のみに非ず、古の名将は慎深く臆病なる者なり、
書き下し
江府は大都會にて五方の士民輻湊の地なれば、途中にて無禮を行ふ者もあるべし、然るに其無禮を責て口論となり、遂に殺傷に及は大なる痴漢なり、尤も格外に無禮甚しく、士道の疵になるは容忍しがたきともあれども、大體は宥免すべし、昔し或人、坂田の金時に勇士に成るべき工夫を問しに、臆病稽古せよと敎たる事、星野葛山の武學拾粹に見へたり、是は深き意味あることにて、凡そ勇士と云は愼み深き者にて、能く事理の輕重を辨じ、危き所に近よらず、人立多き所に行かず、堪忍を第一として喧嘩口論をなさず、人に對し無禮を行はず、人無禮なることありても敢て怒り取合はず、如此身を大切に守るは、吾身は君へ奉りし者にて、我自由にならざるゆへ、君の用に立べき爲なり、且つ愼無き者は油斷多く、人その透間に乘ずるとあれども、如此堅固に身を守るゆへ金城湯池の如く攻入る所なし、一旦君の爲に勇を發する時は、其忠誠純一の氣金石を貫き鐵壁を摧べし、是を眞の勇士と稱するなり、血氣の勇を好み爭鬪を喜ぶものは下郎の勇にして犬死にするとあるべし、但士のみに非ず、古の名將は愼深く臆病なる者なり、
現代語訳
江戸は大都会で、あらゆる方面の士民が集まる土地ですから、道中で無礼を働く者もいるでしょう。それなのにその無礼をとがめて口論になり、ついに殺傷に及ぶのは大きな愚か者です。もちろん、ことのほか無礼がひどく士道の傷になるような場合は耐えがたいこともありますが、おおむね許してやるべきです。昔、ある人が坂田金時に、勇士になるにはどう工夫すればよいかと尋ねたところ、「臆病の稽古をせよ」と教えたことが、星野葛山の『武学拾粋』に見えます。これは深い意味のあることで、そもそも勇士というものは慎み深い者であり、物事の軽重をよくわきまえ、危ういところには近寄らず、人の多く集まる所には行かず、堪忍を第一として喧嘩口論をせず、人に無礼を行わず、人が無礼をしても怒らず取り合いません。このように身を大切に守るのは、我が身は主君に捧げたもので自分の自由にならず、主君の役に立つためだからです。そのうえ、慎みのない者は油断が多く、人がその隙につけ込むものですが、このように堅く身を守っていれば金城湯池のように攻め入る所がありません。いったん主君のために勇を奮うときには、その誠が純粋な気となって金石を貫き、鉄壁を砕きます。これを真の勇士と呼ぶのです。血気の勇を好み争いを喜ぶ者は下郎の勇であり、犬死にするでしょう。ただし武士だけでなく、昔の名将も慎み深く臆病な者でした。
解説
この章句が説くこと
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『艮斎閑話抄録』・慎重さと平松金次郎の一番槍梁の韋叡北魏と戰ふ時、堰を築き水を引き、堅固に陣を搆て容易に合戰せず、或人餘り臆病なりと笑しかば、韋叡大將たる者專ら勇を振べからず、臆病の時もあるべしと、長篠の戰に織田信長三重に柵を搆へ鐵炮を幷べ、甲州の猛士を打殺せしは臆病のようなれども、兵畧に通じ愼深しと謂べし、此時甲州の馬塲信房、山縣昌景等は、敵新に來り其勢銳し、戰はずして避くるにしかずと諫しに、長坂調閑、跡部勝資云ふ、一戰して兩敵に勝は今日に在り、臆病なる計を聽べからず、勝賴其言を用ひ血氣の勇を奮しかば大に敗北せり、平松金次郎は平日臆病なりと、人侮り笑ひ一所に刀を置ざりき、平松少も怒らず謙恭を守れり、長久手の戰に森武藏守三千の精兵黑雲の捲來る勢にて攻掛る、鬼武藏の勇にや畏けん、諸士踏こみ槍を入る者なし、唯平松一人奮然として進み、一番槍を合せ大功を顯せり、此後平松諸士に向ひ、我は喧嘩に甚臆病なれども、戰塲にては大剛の士なり、諸士其心得にて交るべしと云はれしは、感稱に堪へず、士は平生吾身を守り、忠義を盡さんと思ひ、必喧嘩口論にて身を失ふべからず、金時の臆病稽古せよと云ふ意味誠に深かし、
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『艮斎閑話抄録』・恐れ慎む人が発揮する本物の武勇大學に瑟兮僩兮者恂慄也とあり、瑟僩は嚴密武毅の貌なり、恂慄は深く懼れ愼むなり、懼れ愼みある人臆病の如くにて□密武毅の强き所あり、渡那半藏は梁の王鐵槍と同じく、槍半藏と稱せられ、武勇の士なり、然し戰に臨みてけさんの鳴ほどふるひ出し、其後に敵にあたるやいなや、勇氣奮然として突戰す、越後長尾の家に蟹輪源七も敵前にはふるひ出□吐し、然して後勇氣發するなり、坂邊三四郎久世三四郎は兩三四郎と稱せられし武名高き人なり、何れの城攻にや 東照公兩士に命じ斥候に遣さる、坂邊は勇みて馳出す、久世は弱りたる風情にて退出す、側の衆皆坂邊の勇氣を稱美せり、東照公は坂邊は天性剛勇の士なり、久世は嗜の勇なり、然れども城近く往能見ん者は久世なるべしとの玉へり、果して久世は矢石を犯し坂邊よりは城近く熟察して歸れり、人皆 公の御眼力の高きを感歎せり、是等にても、武毅の恂慄より出る意見るべし、
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『告志篇』・危うきを避けてこそ真の剛の者人により危き事いたし候を剛の者といひ、これを用心いたし候を臆病者と嘲り候は、大なる心得違と存候、人々の身は父母の遺體にて、此家につかへ候からは、我等の人に候へば、常ゝ君父の恩義を不忘、己れが身にても己が身と不思、大切に心懸候はゞ、危き事はかりそめにもなし得まじき筈に候、されば何程生れ付丈夫にても、求て不養生なる事をせず、何程弓馬等の藝達者にても、求て危き事をせず、平日は身體髮膚をも毀傷せずして、戰陣には萬人にすぐれ勇を振んと心懸候こそ、眞の剛の者とはいふべけれ、扨右に類したる事にて、大酒大醉の惡しきこといふ事は人々承知の事に候へば、知つゝこれに溺るゝ者なきにあらず、是亦士道不覺悟の至と存候、士は平日の心懸大切にて、一寸門を出候にも覺悟あるべき事と承及候、然るに沈醉して身體もよろけ本心をも失ふ時、萬一不慮の事あらんには、如何なる智者も分別出申間敷、武人にても心外の不覺をとるべし、其上喧嘩爭論等多分酒の上より起る事にて、武士たる者酒に使はれ喧嘩等いたし候は、恥辱なる事ならずや、前にもいへる如く、君父の恩義を忘れ、口腹の爲に不養生をし、身體もうみ、武士の働も自由ならず、剩へ大切の身命を縮るに至るは、何とも惜き事ならずや、されば常ゝ心懸、酒にかぎらず其身を愼み、士の覺悟を不忘樣致度事に候、後悔は疎忽より生じ、大難は細微より發候へば、一寸いたし候事にても疎略に不存、又大事に成候迄も少しも不驚樣、平日覺悟ありたき事に候、
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『武人訓抄録』・勇を養うは仁義に配す一勇は疑憚を決する所以なり、蓋し血戰勇鬪の士は、唯藝に熟し術に長じ、甲堅く兵利におゐては、其餘闕事多しといへども、既に足れるがごとし、然れども一勇不具ものは、危難に至りて不變事かたく、利誘に及びて不陷事まれなり、勇は戰士の根本たり、其是を養ふの術、よく〱仁義に配して其中正を得べし、徒に助長する時は變じて麁暴となる、麁暴なる時は、尤事を害する事あり、人よく此勇を養ひ成ときは、未應戰といへども、其心勇決して懼憚ところなし、誠に勇を養ふは戰士の急務たり、學者よろしく察せらるべし、
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『兵要録抄録』・義に安んじて勇を養う凡そ身を守るの道は、唯〻是れ心の安きを求むるのみ。不義の祿、無功の賞は、之を受けて快からず。不虞の譽れ、不當の任は、之に處りて安からず。義を見て爲さざれば、則ち無勇の非を羞づ。節に死すること敢へてせざれば、則ち罷軟の辱めを憂ふ。事を作して忠ならざれば、則ち素餐の譏りを得。惡を隱して已に犯せば、則ち敗露の恐れ有り。故に其の心降らず、常に不平を懷く。且つ一朝の忿りに其の義を忘れ、一時の利に其の恩を廢して、忠臣義士の指議する所と爲らば、顏厚の士と雖も、豈に其の辱めに堪へんや。況んや天誅の格るは度るべからざるをや。何ぞ心安きを得んや。夫れ士爲る者、常に理義の爲に生を捨て利を忘るれば、則ち獨り心に羞づる所莫し、亦た快からずや。利害を計較するは人の常情なり。利を趨り害を避くるを知りて、義の當に爲すべきと當に爲すべからざるとを看ざれば、則ち騷騷然として自家の利便の處に流荒し、自私して到らざる所無し。未だ此の如くにして恩を廢して君を後にし、義に背きて寇を引かざる者有らざるなり。唯〻義に安んずる處を知りて便ち利と爲し、不義を是れ害と爲す者は、庶くは危難に變ぜず、利誘に陷らざらん。言行已に失すれば逐ふべからず。當に先づ其の機を心に愼むべし。事前に決せざれば、機に當たらず。當に先づ其の急を常に戒むべし。夫れ勇を養ふや、義と直とに配すれば、則ち中正を獲。徒らに助長すれば、則ち其の積氣太だ浮にして畏心漸く掩はれ、變じて麤暴と作る。人麤暴なれば、則ち最も事を害す。良將の取らざる所なり。人能く這箇の勇義を養成すれば、則ち未だ戰に應ぜずと雖も、其の心勇決にして疑懼する所無し。或いは未だ疑懼を免れざる者は、養ふこと充たざるなり。恐らくは事に臨みて果敢を得ず。

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