五行大義 / 第二十二論諸官
春之月。其神勾芒。夏之月。其神祝融。中央土。其神后土。秋之月。其神蓐收。冬之月。其神玄冥是也。此五方之神。以配五行。又。黃帝置三公之職。以象三台星。風后配上台。天老配中台。五聖配下台。置左右二監。此亦五行之謂也。四司分掌四方。卽四時之法也。堯以羲和四子。分掌四時方嶽之職。謂之四嶽。太公曰。太師者。心腹之臣。所使是人之英。故曰前疑。常立於前。決疑事也。太史者。耳目之臣。所使視聽。是人之後。故曰後承。常立於後。承主之過。取驗於天。太傅者。爪牙之臣。所使守衞。是人之傑。故曰左輔。輔人主缺事。立於左。拒君之難。太保者。羽翼之臣。所使察伺。是人之警。故曰右弼。常立於右。弼人主之邪。四輔既立。王者安而無爲。百姓濟而無害。若四輔不具。猶格虎無備。濟河無舟。若王者不知古今之務。遠方之緯。不謀於諸侯。不達言語。動作不合於制。太師爭之。不知天變。星厤之運。天官動靜。鐘律之音。山川怪異。不善災害。太史陳天文以爭之。發號令。不應先王法度。與大臣無禮。枉道於民。處刑不平。獨信自專。臨政不莊。又不恤臣僕。太傅爭之。昇車不應和鸞。揖讓不中磬珮。淫讌馳騁。
新字:春之月。其神勾芒。夏之月。其神祝融。中央土。其神后土。秋之月。其神蓐収。冬之月。其神玄冥是也。此五方之神。以配五行。又。黄帝置三公之職。以象三台星。風后配上台。天老配中台。五聖配下台。置左右二監。此亦五行之謂也。四司分掌四方。即四時之法也。堯以羲和四子。分掌四時方嶽之職。謂之四嶽。太公曰。太師者。心腹之臣。所使是人之英。故曰前疑。常立於前。決疑事也。太史者。耳目之臣。所使視聴。是人之後。故曰後承。常立於後。承主之過。取験於天。太傅者。爪牙之臣。所使守衛。是人之傑。故曰左輔。輔人主欠事。立於左。拒君之難。太保者。羽翼之臣。所使察伺。是人之警。故曰右弼。常立於右。弼人主之邪。四輔既立。王者安而無為。百姓済而無害。若四輔不具。猶格虎無備。済河無舟。若王者不知古今之務。遠方之緯。不謀於諸侯。不達言語。動作不合於制。太師争之。不知天変。星厤之運。天官動静。鐘律之音。山川怪異。不善災害。太史陳天文以争之。発号令。不応先王法度。与大臣無礼。枉道於民。処刑不平。独信自専。臨政不荘。又不恤臣僕。太傅争之。昇車不応和鸞。揖譲不中磬珮。淫讌馳騁。
書き下し
春の月、その神は勾芒。夏の月、その神は祝融。中央は土、その神は后土。秋の月、その神は蓐収。冬の月、その神は玄冥、と。是れなり。此の五方の神は、以て五行に配す。又、黄帝三公の職を置き、以て三台星に象る。風后は上台に配し、天老は中台に配し、五聖は下台に配す。左右の二監を置く。此れも亦五行の謂なり。四司は四方を分掌す、即ち四時の法なり。堯は羲和の四子を以て、四時方岳の職を分掌せしめ、之を四岳と謂う。太公曰く、太師は、心腹の臣なり。使う所は是れ人の英なり。故に前疑と曰う。常に前に立ち、疑事を決するなり。太史は、耳目の臣なり。使う所は視聴にして、是れ人の後なり。故に後承と曰う。常に後に立ち、主の過ちを承け、験を天に取る。太傅は、爪牙の臣なり。使う所は守衛にして、是れ人の傑なり。故に左輔と曰う。人主の欠事を輔け、左に立ち、君の難を拒ぐ。太保は、羽翼の臣なり。使う所は察伺にして、是れ人の警なり。故に右弼と曰う。常に右に立ち、人主の邪を弼(ただ)す。四輔既に立てば、王者は安くして無為に、百姓は済(すく)われて害無し。若し四輔具わらざれば、猶お虎を格(う)つに備え無く、河を済(わた)るに舟無きがごとし。若し王者古今の務め、遠方の緯を知らず、諸侯に謀らず、言語に達せず、動作制に合わざれば、太師之を争(いさ)む。天の変、星暦の運、天官の動静、鐘律の音、山川の怪異、不善の災害を知らざれば、太史天文を陳べて以て之を争む。号令を発して先王の法度に応ぜず、大臣と礼無く、道を民に枉げ、刑に処すること平らかならず、独り信じて自ら専らにし、政に臨みて荘ならず、又臣僕を恤れまざれば、太傅之を争む。車に昇りて和鸞(からん)に応ぜず、揖譲(ゆうじょう)して磬珮(けいはい)に中らず、淫讌(いんえん)馳騁(ちてい)し、
現代語訳
春の月、その神は勾芒。夏の月、その神は祝融。中央の土、その神は后土。秋の月、その神は蓐収。冬の月、その神は玄冥とあるのがこれである。この五方の神を五行に配するのである。また、黄帝は三公の職を置いて、三台星(北斗の近くの三対六星)にかたどった。風后を上台に、天老を中台に、五聖を下台に配した。左右の二監を置いた。これもまた五行ということである。四司が四方を分けて受け持つのは、四季の法である。堯は羲和の四人の子に、四季と四方の山岳の職を分けて受け持たせ、これを四岳といった。太公はいう。太師は心と腹の臣であり、用いるのは人のうちで英れた者である。だから前疑という。いつも前に立ち、疑わしい事を決めるのである。太史は耳と目の臣であり、見聞きすることに用い、人の後ろにいる者である。だから後承という。いつも後ろに立ち、君主の過ちを受けとめ、その証を天に取る。太傅は爪と牙の臣であり、守衛に用い、人のうちで傑出した者である。だから左輔という。君主の足りないところを補い、左に立って、君の危難を防ぐ。太保は羽と翼の臣であり、様子をうかがい察することに用い、人のうちで警戒心の鋭い者である。だから右弼という。いつも右に立ち、君主のよこしまを正す。この四輔が立てば、王者は安らかで何もせずとも治まり、民は救われて害を受けない。もし四輔がそろわなければ、備えもなく虎と格闘し、舟もなく河を渡るようなものである。もし王者が古今の務めや遠方の事情を知らず、諸侯に相談せず、言葉に通じず、ふるまいが制度に合わなければ、太師がこれを諫める。天の異変、星と暦のめぐり、天の官の動きと静けさ、鐘と律の音、山川の怪異、よくない災害を知らなければ、太史が天文を述べてこれを諫める。号令を発しても先王の法度にかなわず、大臣に対して礼がなく、民に対して道を曲げ、刑罰の処置が公平でなく、自分だけを信じて独断し、政治に臨んで威儀が正しくなく、また臣下や召使いをいたわらなければ、太傅がこれを諫める。車に乗っても(車の鈴の)和と鸞の音に合わず、会釈や譲り合いの動作が(腰に下げた)玉の響きに合わず、みだらな宴会や馬の乗り回しにふけり、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 田叔列伝魯の相初めて到るや、民自ら相に言ひ、王の其の財物を取るを訟ふる者百余人。田叔其の渠率二十人を取り、各々笞うつこと五十、余は各々搏つこと二十、之を怒りて曰く、「王は若の主に非ずや。何ぞ自ら敢へて若の主を言ふ」と。魯王之を聞きて大いに慚ぢ、中府の銭を発し、相をして之を償はしむ。相曰く、「王自ら之を奪ひ、相をして之を償はしむるは、是れ王悪を為して相善を為すなり。相は与に之を償ふ毋し」と。是に於て王乃ち尽く之を償ふ。魯王猟を好み、相常に従ひて苑中に入る。王輒ち相を休ませて館舎に就かしむ。相出でて、常に暴坐して王を苑外に待つ。王数々人をして相に休まんことを請はしむるも、終に休まず。曰く、「我が王苑中に暴露す。我独り何為れぞ舎に就かん」と。魯王故を以て大いには出游せず。
-
史記 殷本紀紂曰く、「我生まれて命の天に在る有らずや」と。祖伊反りて、曰く、「紂諫む可からず」と。西伯既に卒し、周の武王の東伐して、盟津に至る。諸侯の殷に叛きて周に会する者八百。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「爾未だ天命を知らず」と。乃ち復た帰る。紂愈淫乱して止まず。微子数諫むるも聴かず、乃ち大師・少師と謀り、遂に去る。比干曰く、「人臣為る者は、死を以て争はざるを得ず」と。迺ち強ひて紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人の心に七竅有りと」と。比干を剖き、其の心を観る。箕子懼れ、乃ち詳狂して奴と為る。紂又之を囚ふ。殷の大師・少師乃ち其の祭楽器を持ちて周に奔る。周の武王是に於て遂に諸侯を率ゐて紂を伐つ。紂も亦兵を発して之を牧野に距ぐ。甲子の日、紂の兵敗る。紂走り、入りて鹿台に登り、其の宝玉の衣を衣て、火に赴きて死す。
-
史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
-
史記 張丞相列伝帝、太子を廃して、戚姫の子如意を立てて太子と為さんと欲するに及び、大臣固く之を争へども、能く得る莫し。上、留侯の策を以て即ち止む。而して周昌廷に之を争ふこと彊し。上其の説を問ふ。昌は人と為り吃(ども)りにして、又盛んに怒りて曰く、「臣の口は言ふこと能はず。然れども臣期期として其の不可なるを知る。陛下太子を廃せんと欲すと雖も、臣期期として詔を奉ぜず」と。上欣然として笑ふ。既に罷むるや、呂后東箱に耳を側てて聴き、周昌を見て、為に跪きて謝して曰く、「君微(な)かりせば、太子幾(ほと)んど廃せられん」と。是の後戚姫の子如意、趙王と為り、
-
史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
-
荀子・大略篇人の臣下たる者は、諫むること有るも訕ること無く、亡ること有るも疾むこと無く、怨むこと有るも怒ること無し。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る