五行大義 / 第十四論雑配・第六論五事
五事者。尚書洪範云。敬用五事。蓋以人事配五行也。一曰貌。以配木。二曰言。以配金。三曰視。以配火。四曰聽。以配水。五曰思。以配土。尚書洪範曰。貌曰恭。言曰從。視曰明。聽曰聰。思曰叡。恭作肅。從作乂。明作哲。聰作謀。叡作聖。貌曰恭者。天子之恭曰穆穆。上恭肅則下敬矣。孔子曰。其行己也恭。其事上也敬。又曰。在體曰恭。加於人。施於事。曰敬。貌之不恭。是謂不肅。肅。敬也。夫洪範所陳五事。貌爲首者。於易。貌爲震。震爲木。木可觀也。故經列三德。而服爲其上。詩云。敬慎威儀。惟人之則。有威而可畏。謂之威。有儀而可象。謂之儀。君有威儀。其臣畏而愛之。則而象之。故能長有其國。臣有威儀。故能長守其職。君子在位可畏。施舍可愛。進退可度。周旋可則。容止可觀。作事可法。德行可象。聲氣可樂。動作有文。言語有章。以臨其下。謂之威儀。孔子曰。正其衣冠。尊其瞻視。儼然人望而畏之。不亦威而不猛。又曰。不嚴以莅之。則人不敬。故失威儀之節。怠慢驕恣。謂之狂。狂則下不肅矣。
新字:五事者。尚書洪範云。敬用五事。蓋以人事配五行也。一曰貌。以配木。二曰言。以配金。三曰視。以配火。四曰聴。以配水。五曰思。以配土。尚書洪範曰。貌曰恭。言曰従。視曰明。聴曰聰。思曰叡。恭作粛。従作乂。明作哲。聰作謀。叡作聖。貌曰恭者。天子之恭曰穆穆。上恭粛則下敬矣。孔子曰。其行己也恭。其事上也敬。又曰。在体曰恭。加於人。施於事。曰敬。貌之不恭。是謂不粛。粛。敬也。夫洪範所陳五事。貌為首者。於易。貌為震。震為木。木可観也。故経列三徳。而服為其上。詩云。敬慎威儀。惟人之則。有威而可畏。謂之威。有儀而可象。謂之儀。君有威儀。其臣畏而愛之。則而象之。故能長有其国。臣有威儀。故能長守其職。君子在位可畏。施舎可愛。進退可度。周旋可則。容止可観。作事可法。徳行可象。声気可楽。動作有文。言語有章。以臨其下。謂之威儀。孔子曰。正其衣冠。尊其瞻視。儼然人望而畏之。不亦威而不猛。又曰。不厳以莅之。則人不敬。故失威儀之節。怠慢驕恣。謂之狂。狂則下不粛矣。
書き下し
五事とは、『尚書』洪範に云う、敬(つつし)みて五事を用う、と。蓋し人事を以て五行に配するなり。一に曰く貌、以て木に配す。二に曰く言、以て金に配す。三に曰く視、以て火に配す。四に曰く聴、以て水に配す。五に曰く思、以て土に配す。『尚書』洪範に曰く、貌は恭と曰い、言は従と曰い、視は明と曰い、聴は聡と曰い、思は叡と曰う。恭は粛を作(な)し、従は乂(がい)を作し、明は哲を作し、聡は謀を作し、叡は聖を作す、と。貌は恭と曰うとは、天子の恭は穆穆(ぼくぼく)と曰う。上恭粛なれば則ち下敬す。孔子曰く、その己を行うや恭、その上に事うるや敬、と。又曰く、体に在るを恭と曰い、人に加え、事に施すを敬と曰う、と。貌の恭ならざる、是れを不粛と謂う。粛は敬なり。夫れ洪範の陳ぶる所の五事に、貌を首と為すは、易に於いて、貌は震たり、震は木たり、木は観るべきなり。故に経に三徳を列して、服はその上たり。『詩』に云う、威儀を敬慎するは、惟れ人の則なり、と。威有りて畏るべき、これを威と謂う。儀有りて象(のっと)るべき、これを儀と謂う。君に威儀有れば、その臣畏れてこれを愛し、則りてこれに象る、故に能く長くその国を有つ。臣に威儀有り、故に能く長くその職を守る。君子は位に在りて畏るべく、施舎して愛すべく、進退して度とすべく、周旋して則とすべく、容止して観るべく、事を作して法とすべく、徳行して象るべく、声気して楽しむべく、動作に文有り、言語に章有り、以てその下に臨む、これを威儀と謂う。孔子曰く、その衣冠を正し、その瞻視を尊くし、儼然として人望みてこれを畏る、亦威ありて猛からずや、と。又曰く、厳以てこれに莅(のぞ)まざれば、則ち人敬せず、と。故に威儀の節を失い、怠慢驕恣なる、これを狂と謂う。狂なれば則ち下粛まず。
現代語訳
五事とは、『尚書』洪範(『書経』の一篇。五行説の最古の典拠)に「慎んで五事を用いる」とあるものである。思うに、人の事柄を五行に配したものである。第一は貌(容貌・振る舞い)で、木に配する。第二は言(言葉)で、金に配する。第三は視(見ること)で、火に配する。第四は聴(聞くこと)で、水に配する。第五は思(思うこと)で、土に配する。『尚書』洪範にはこうある。貌は恭しくあること、言は道理に従うこと、視は明らかであること、聴は聡いこと、思は深く通じることである。恭しさは厳粛さを生み、従うことは治まりを生み、明らかさは賢さを生み、聡さははかりごとを生み、深く通じることは聖を生む、と。貌は恭しくあることというのは、天子の恭しさを穆穆(ぼくぼく、奥深くおごそかなさま)という。上が恭しく厳粛であれば、下は敬う。孔子は、自分の身を行うには恭しく、上に仕えるには敬う、と言った。また、身にあるものを恭といい、人に向け事に施すものを敬という、とも言った。貌が恭しくないこと、これを厳粛でないという。粛とは敬のことである。そもそも洪範が述べる五事において貌を最初に置くのは、『易』では貌は震(しん)であり、震は木であって、木は目に見て観るべきものだからである。だから経書が三つの徳を並べるとき、服装がその第一に置かれる。『詩経』には、威儀を慎み重んじることが人の手本である、とある。威厳があって畏れられるもの、これを威という。作法があって手本にされるもの、これを儀という。君主に威儀があれば、臣下はこれを畏れつつ慕い、手本としてならう。だから長くその国を保つことができる。臣下に威儀があるから、長くその職を守ることができる。君子は、位にあっては畏れられ、施し与えては慕われ、進むも退くも手本となり、立ち居振る舞いは模範となり、姿や挙止は見るに値し、事を行えば手本となり、徳ある行いはならうに値し、声や気配は人を楽しませ、動作には飾りがあり、言葉には筋道がある。こうして下の者に臨む、これを威儀という。孔子は言った。衣冠を正し、目の配り方をおごそかにして、きりっとしていれば人は見て畏れる。これこそ威厳があって荒々しくないということではないか、と。また言った。厳しさをもって臨まなければ、人は敬わない、と。だから威儀の節度を失い、怠けてあなどり、おごってほしいままにすること、これを狂という。狂であれば下の者は厳粛にならない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孫子・始計篇一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法。
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尚書・洪範貌は恭と曰い、言は従と曰い、視は明と曰い、聴は聡と曰い、思は睿と曰う。
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孫子・始計篇凡そ此の五者は、将は聞かざるは莫きも、之を知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。
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孫子・行軍篇數々賞する者は、窘するなり。數々罰する者は、困しむなり。先に暴にして後に其の衆を畏るる者は、不精の至りなり。来たりて委謝する者は、休息を欲するなり。
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孫子・始計篇故に之を経るに五事を以てし、之を校ぶるに七計を以てして、其の情を索む。
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『慎思録』巻之五洪範の五事も、亦各徳有り。所謂物有れば必ず則有るなり。五事も亦四勿と相表裏を為す。蓋し四勿の工夫有れば、則ち五事の徳有り。四勿と五事と、其の数同じからざる者は、何ぞや。蓋し貌と思との二者は、倶に動に属す。貌は外に動き、思は内に動くなり。
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