導師導古典を学びたいすべての人に

五行大義 / 第九論扶抑

扶者。以輔助爲義。抑者。以止退立名。五行既成。盛衰有時。尊卑代易。故有相扶抑之義。其相遇也。母得子爲扶。子遇母爲抑。子有孝養順助之理。所以爲扶。母有尊嚴訓制之道。所以爲抑。相扶者。木扶水。水扶金。金扶土。土扶火。火扶木。此皆母得子。相抑者。木抑火。火抑土。土抑金。金抑水。水抑木。此皆子遇母也。柳世隆龜經云。扶者壽。抑者否。扶者起。抑者止。扶者仰。抑者俛。扶者進。抑者退。扶者行。抑者停。扶者吉。抑者凶。就此又須消息。凡父母有氣爲真。父母無氣爲宗廟鬼神。有氣爲兒子福助。無氣爲財帛功德。所以扶者爲善。抑者爲惡。生王之時。則爲有氣。死沒之時。則是無氣。有氣無氣。復有二種。若遇合德。雖抑非害。若逢刑剋。爲凶更重之。問曰。母之於子。訓制之道。謂之爲凶。此未可解。尊嚴訓制。教以義方。欲其成人。何爲反惡。答曰。前解巳有二種。若遇一德合。雖抑非害。有氣爲真父母。此是欲其成人。雖然當訓之時。於子交不遂心。亦是留礙。況逢刑剋。舜之至孝。尚大杖則逃。王祥扣冰。孟宗泣筍。此豈是義方之教。無氣爲鬼神者。鬼神之來。多欲爲祟。禱請祈求。及可致福。非否抑而何。

新字:扶者。以輔助為義。抑者。以止退立名。五行既成。盛衰有時。尊卑代易。故有相扶抑之義。其相遇也。母得子為扶。子遇母為抑。子有孝養順助之理。所以為扶。母有尊厳訓制之道。所以為抑。相扶者。木扶水。水扶金。金扶土。土扶火。火扶木。此皆母得子。相抑者。木抑火。火抑土。土抑金。金抑水。水抑木。此皆子遇母也。柳世隆亀経云。扶者寿。抑者否。扶者起。抑者止。扶者仰。抑者俛。扶者進。抑者退。扶者行。抑者停。扶者吉。抑者凶。就此又須消息。凡父母有気為真。父母無気為宗廟鬼神。有気為児子福助。無気為財帛功徳。所以扶者為善。抑者為悪。生王之時。則為有気。死没之時。則是無気。有気無気。復有二種。若遇合徳。雖抑非害。若逢刑剋。為凶更重之。問曰。母之於子。訓制之道。謂之為凶。此未可解。尊厳訓制。教以義方。欲其成人。何為反悪。答曰。前解巳有二種。若遇一徳合。雖抑非害。有気為真父母。此是欲其成人。雖然当訓之時。於子交不遂心。亦是留礙。況逢刑剋。舜之至孝。尚大杖則逃。王祥扣冰。孟宗泣筍。此豈是義方之教。無気為鬼神者。鬼神之来。多欲為祟。祷請祈求。及可致福。非否抑而何。

書き下し

扶とは、輔助を以て義と為し、抑とは、止退を以て名を立つ。五行既に成り、盛衰時有り、尊卑代わり易わる、故に相扶抑の義有り。其の相遇うや、母は子を得て扶と為し、子は母に遇いて抑と為す。子には孝養順助の理有り、所以に扶と為す。母には尊厳訓制の道有り、所以に抑と為す。相扶とは、木は水を扶け、水は金を扶け、金は土を扶け、土は火を扶け、火は木を扶く。此れ皆母の子を得るなり。相抑とは、木は火を抑え、火は土を抑え、土は金を抑え、金は水を抑え、水は木を抑う。此れ皆子の母に遇うなり。柳世隆(りゅうせいりゅう)の亀経に云う、扶は寿、抑は否。扶は起、抑は止。扶は仰ぎ、抑は俛(ふ)す。扶は進み、抑は退く。扶は行き、抑は停まる。扶は吉、抑は凶、と。此に就きて又須く消息すべし。凡そ父母の気有るを真と為し、父母の気無きを宗廟鬼神と為す。気有るを児子福助と為し、気無きを財帛功徳と為す。所以に扶は善と為し、抑は悪と為す。生王の時は、則ち有気と為し、死没の時は、則ち是れ無気なり。有気無気に、復た二種有り。若し合徳に遇えば、抑と雖も害に非ず。若し刑剋に逢えば、凶為ること更に之を重くす。問うて曰く、母の子に於ける、訓制の道なるに、之を謂いて凶と為す、此れ未だ解すべからず。尊厳もて訓制し、教うるに義方を以てするは、其の成人を欲すればなり。何為(なんす)れぞ反って悪なる、と。答えて曰く、前の解に已に二種有り。若し一つの徳合に遇えば、抑と雖も害に非ず。有気は真の父母為り、此れ是れ其の成人を欲するなり。然りと雖も訓うる時に当たりては、子に於て交(こもごも)心を遂げず、亦是れ留礙(りゅうがい)なり。況んや刑剋に逢うをや。舜の至孝すら、尚お大杖なれば則ち逃る。王祥(おうしょう)は冰を扣(たた)き、孟宗(もうそう)は筍に泣く。此れ豈に是れ義方の教えならんや。無気を鬼神と為すとは、鬼神の来たるは、多く祟りを為さんと欲す。禱請祈求して、及(すなわ)ち福を致すべし。否抑に非ずして何ぞや。

現代語訳

扶とは、助けることを意味とし、抑とは、止めて退かせることから名づけたものである。五行ができあがると、盛んになる時と衰える時があり、尊いものと卑しいものが入れ替わる。だから互いに扶け抑えるという関係がある。それらが出会うとき、母が子を得れば扶とし、子が母に出会えば抑とする。子には孝行して養い、従って助ける道理があるから扶とする。母には尊厳をもって教えしつける道があるから抑とする。相扶とは、木は水を扶け、水は金を扶け、金は土を扶け、土は火を扶け、火は木を扶けることである。これはみな母が子を得る場合である。相抑とは、木は火を抑え、火は土を抑え、土は金を抑え、金は水を抑え、水は木を抑えることである。これはみな子が母に出会う場合である。柳世隆(南朝の人)の『亀経』(亀卜の書)には、「扶は長寿、抑は不運。扶は起こり、抑は止まる。扶は仰ぎ、抑はうつむく。扶は進み、抑は退く。扶は行き、抑は停まる。扶は吉、抑は凶」とある。これについてはさらに、盛衰の加減を見きわめなければならない。およそ父母にあたるものに気があれば真の父母とし、父母に気がなければ宗廟の鬼神(祖先の霊)とする。子にあたるものに気があれば子の福や助けとし、気がなければ財物や功徳とする。だから扶は善とし、抑は悪とする。生まれ、また盛んな時であれば気があるとし、死に、没した時であれば気がないとする。気がある場合と気がない場合とで、さらに二種類に分かれる。もし合や徳に出会えば、抑であっても害にはならない。もし刑や剋に出会えば、凶であることがいっそう重くなる。問う。母が子に対して教えしつけるのは正しい道であるのに、これを凶とするのは、まだ納得できない。尊厳をもって教えしつけ、正しい道を教えるのは、子を一人前にしたいからである。どうしてかえって悪となるのか。答える。先の説明ですでに二種類あると述べた。もし徳や合に一つでも出会えば、抑であっても害ではない。気があれば真の父母であり、これは子を一人前にしたいと願うものである。そうではあっても、しつけるその時には、子の側ではあれこれと思いどおりにならず、やはり妨げとなる。まして刑や剋に出会う場合はなおさらである。舜のような至孝の人でさえ、父が大きな杖で打とうとすれば逃げた。王祥は(継母のために)氷をたたき割って魚を求め、孟宗は(母のために冬の竹林で)筍がないことに泣いた。これがどうして正しい道の教えであろうか。気がないものを鬼神とするのは、鬼神がやって来るときは、多くは祟りをなそうとするからである。祈り願い求めて、ようやく福を招くことができる。これが抑えふさぐものでなくて何であろうか。

解説

「論扶抑」の段で、五行の相生関係を、出会う向きによって吉と凶に分ける説である。母から見て子を得る向き、たとえば水にとっての木は、子が母を養い助けるから扶で吉。子から見て母に遇う向き、たとえば火にとっての木は、母が子を押さえてしつけるから抑で凶とされる。そこに気の有無、つまり季節の中で盛んか衰えているかを重ね、同じ父母でも気があれば真の父母、なければ祖先の霊とするなど、占いの読み分けが細かく定められる。興味深いのは問答の部分である。親のしつけは子のためなのに、なぜ凶なのかという当然の疑問に対し、しつけられる時の子にとっては思いどおりにならない妨げだと答え、二十四孝で知られる王祥や孟宗の話まで引く。孝行の美談をあえて子の苦しみの例として読むのは、率直な見方である。正しさと本人の受け止め方は別物だという指摘は、人を育てる立場にある者にとって今も耳の痛い言葉である。

この章句が説くこと

五行大義扶抑相生亀経孝

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る