五行大義 / 第九論扶抑
問曰。解云。有氣爲父母。無氣爲鬼神者。此亦有疑。夫鬼神雖居幽微。猶是有物。精靈感通。禍福斯應。若云無者。宗廟享祀。何所依憑。答曰。所言有無者。正論生死。生則形存爲有。死則氣散爲無。不語幽微。何足疑也。問曰。若如此解。死則爲無。無何所慮。而能爲抑。答曰。鬼神雖無形質可見。而有善惡可求。故能爲抑。問曰。若能爲抑。便是有義。答曰。就抑則有。語形則無。今解無也。就氣而論。非是全無。但無王相之氣。而有死沒之氣。王相氣來則吉。死沒氣來則凶。所言無氣者。無王相氣耳。
新字:問曰。解云。有気為父母。無気為鬼神者。此亦有疑。夫鬼神雖居幽微。猶是有物。精霊感通。禍福斯応。若云無者。宗廟享祀。何所依憑。答曰。所言有無者。正論生死。生則形存為有。死則気散為無。不語幽微。何足疑也。問曰。若如此解。死則為無。無何所慮。而能為抑。答曰。鬼神雖無形質可見。而有善悪可求。故能為抑。問曰。若能為抑。便是有義。答曰。就抑則有。語形則無。今解無也。就気而論。非是全無。但無王相之気。而有死没之気。王相気来則吉。死没気来則凶。所言無気者。無王相気耳。
書き下し
問うて曰く、解に云う、気有るを父母と為し、気無きを鬼神と為す、と。此れ亦疑い有り。夫れ鬼神は幽微に居ると雖も、猶お是れ物有り。精霊感通し、禍福斯(ここ)に応ず。若し無しと云わば、宗廟の享祀(きょうし)、何の依憑する所ぞ、と。答えて曰く、言う所の有無とは、正に生死を論ず。生くれば則ち形存して有と為し、死すれば則ち気散じて無と為す。幽微を語らず、何ぞ疑うに足らんや、と。問うて曰く、若し此の解の如くならば、死すれば則ち無と為る。無ならば何の慮る所ありて、能く抑を為す、と。答えて曰く、鬼神は形質の見るべき無しと雖も、而も善悪の求むべき有り、故に能く抑を為す、と。問うて曰く、若し能く抑を為さば、便ち是れ有の義なり、と。答えて曰く、抑に就けば則ち有り、形を語れば則ち無し。今は無を解するなり。気に就きて論ずれば、是れ全くは無きに非ず。但だ王相の気無くして、死没の気有り。王相の気来たれば則ち吉、死没の気来たれば則ち凶。言う所の無気とは、王相の気無きのみ、と。
現代語訳
問う。先の説明では、気があれば父母とし、気がなければ鬼神とするという。これにもまた疑問がある。そもそも鬼神は奥深くかすかな所にいるとはいえ、やはり存在するものである。その霊が感じ通じて、禍と福がそれに応じて起こる。もし無いというのなら、宗廟で祖先を祭るのは、何を拠り所にしているのか。答える。ここで言う有と無とは、まさに生と死を論じているのである。生きていれば形が存在するので有とし、死ねば気が散るので無とする。奥深くかすかな世界のことを言っているのではない。どうして疑うことがあろうか。問う。もしその説明のとおりなら、死ねば無となる。無であるなら何を気にかける必要があって、抑をなすことができるのか。答える。鬼神は見ることのできる形や質はないが、善悪のはたらきとして求めることのできるものがある。だから抑をなすことができるのである。問う。もし抑をなすことができるなら、それはつまり有るということではないか。答える。抑のはたらきについて言えば有るし、形について言えば無い。いまは無ということを説明しているのである。気について論じるなら、まったく無いわけではない。ただ王相の気(その季節に最も盛んな気と、それに次いで盛んな気)がなく、死没の気(衰えきって死んだ気)がある。王相の気が来れば吉、死没の気が来れば凶である。ここで言う「気がない」とは、王相の気がないというだけのことである。
解説
この章句が説くこと
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五行大義・第九論扶抑扶とは、輔助を以て義と為し、抑とは、止退を以て名を立つ。五行既に成り、盛衰時有り、尊卑代わり易わる、故に相扶抑の義有り。其の相遇うや、母は子を得て扶と為し、子は母に遇いて抑と為す。子には孝養順助の理有り、所以に扶と為す。母には尊厳訓制の道有り、所以に抑と為す。相扶とは、木は水を扶け、水は金を扶け、金は土を扶け、土は火を扶け、火は木を扶く。此れ皆母の子を得るなり。相抑とは、木は火を抑え、火は土を抑え、土は金を抑え、金は水を抑え、水は木を抑う。此れ皆子の母に遇うなり。柳世隆(りゅうせいりゅう)の亀経に云う、扶は寿、抑は否。扶は起、抑は止。扶は仰ぎ、抑は俛(ふ)す。扶は進み、抑は退く。扶は行き、抑は停まる。扶は吉、抑は凶、と。此に就きて又須く消息すべし。凡そ父母の気有るを真と為し、父母の気無きを宗廟鬼神と為す。気有るを児子福助と為し、気無きを財帛功徳と為す。所以に扶は善と為し、抑は悪と為す。生王の時は、則ち有気と為し、死没の時は、則ち是れ無気なり。有気無気に、復た二種有り。若し合徳に遇えば、抑と雖も害に非ず。若し刑剋に逢えば、凶為ること更に之を重くす。問うて曰く、母の子に於ける、訓制の道なるに、之を謂いて凶と為す、此れ未だ解すべからず。尊厳もて訓制し、教うるに義方を以てするは、其の成人を欲すればなり。何為(なんす)れぞ反って悪なる、と。答えて曰く、前の解に已に二種有り。若し一つの徳合に遇えば、抑と雖も害に非ず。有気は真の父母為り、此れ是れ其の成人を欲するなり。然りと雖も訓うる時に当たりては、子に於て交(こもごも)心を遂げず、亦是れ留礙(りゅうがい)なり。況んや刑剋に逢うをや。舜の至孝すら、尚お大杖なれば則ち逃る。王祥(おうしょう)は冰を扣(たた)き、孟宗(もうそう)は筍に泣く。此れ豈に是れ義方の教えならんや。無気を鬼神と為すとは、鬼神の来たるは、多く祟りを為さんと欲す。禱請祈求して、及(すなわ)ち福を致すべし。否抑に非ずして何ぞや。
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礼記・祭義宰我曰く、「吾、鬼神の名を聞くも、その謂う所を知らず」と。子曰く、「気なる者は、神の盛んなるなり。魄なる者は、鬼の盛んなるなり。鬼と神とを合わするは、教えの至りなり。衆生必ず死し、死すれば必ず土に帰す。此れをこれ鬼と謂う。骨肉下に斃(たお)れ、陰(おん)して野土と為る。その気は上に発揚して、昭明・焄蒿(くんこう)・悽愴と為る。此れ百物の精なり、神の著(あら)われなり。物の精に因りて、制してこれが極を為し、明らかに鬼神と命じて、以て黔首(けんしゅ)の則(のり)と為す。則ち百衆以て畏れ、万民以て服す。
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五行大義・第十四論雑配・第四論配蔵府骨肉は下に斃(たお)れ、化して野土と為る。その気は上に発揚す、此れ神の著(あらわ)れなり。聖人は人物の情に因りて、明らかに鬼神を命じ、以て民の則(のり)と為す。燔燎羶薌(はんりょうせんきょう)は、気に報ゆる所以なり。黍稷を薦め、肺肝を脩め、加うるに鬱暢(うっちょう)を以てするは、魄に報ゆる所以なり、と。『漢書』五行志に云う、人命終わりて形蔵し、精神散越す。聖人これが為に宗廟を為り、以て魂気を収め、春秋に祭祀して、以て孝道を修む、と。『尸子』に曰く、鬼は帰なり。古者(いにしえ)は死人を謂いて帰人と為す、と。『淮南子』に曰く、人の精神は、天の有なり。骸骨は、地の有なり。精気はその門に入りて、骸骨はその根に反る、と。又云う、天気を魂と為し、地気を魄と為す、と。『礼記』郊特牲に云う、凡そ祭は諸(これ)を此に慎む。魂気は天に帰し、形魄は地に帰す。故に祭は諸を陰陽に求むるの義なり、と。故に気の清める者を神と曰う、即ち陽の魂なり。気の濁れる者を鬼と曰う、即ち陰の魄なり。延陵季子(えんりょうきし)、その子を嬴博(えいはく)の間に葬りて云う、骨肉は土に帰するは、命なり。魂気は之かざる無し、と。『越記』に云う、王、范子に問いて曰く、寡人聞く、その魂魄を失う者は死し、その魂魄を得る者は生く、と。物皆これ有るか、将(は)た人のみか、と。范蠡(はんれい)対えて曰く、魄は囊(ふくろ)なり。魂は生気の源なり、と。又云う、魂は生気の精なり、魄は死気の舎なり、と。『韓詩』に云う、溱洧(しんい)に二水有り。三月上巳(じょうし)に、鄭国常に此の水上に於いて魂を招き魄を続ぐ、と。『左伝』昭二十五年に、宋公讌(えん)し、叔孫昭子をして右に坐せしむ。語りて相泣く。楽祁(がくき)子曰く、今君と叔孫とは皆死せんか。
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孔子家語・哀公問政宰我、孔子に問いて曰わく、「吾鬼神の名を聞くも、謂う所を知らず。敢えて焉を問う。」孔子曰わく、「人生まれて気有り、魂有り。気とは、人の盛んなるものなり。夫れ生あれば必ず死し、死すれば必ず土に帰す、此れを鬼と謂う。魂気天に帰す、此れを神と謂う。鬼と神とを合わせて之れを享くるは、教えの至りなり。骨肉下に弊れ、化して野土と為る。其の気上に発揚する者は、此れ神の著なり。聖人物の精に因りて、制して之れが極と為す。鬼神を明命して、以て民の則と為すも、猶お是を以て未だ足らずと為すなり。故に築きて宮室と為し、設けて宗祧と為す。春秋に祭祀して、以て親疏を別つ。民に古に反り始めに復るを教え、敢えて其の由りて生ずる所を忘れざらしむるなり。衆人此れより服し且つ速やかに聴く、教うるに二端を以てす。二端既に立ち、報ゆるに二礼を以てす。朝事を建設し、膻薌を燔燎するは、気に報ゆる所以なり。黍稷を薦め、肺・肝を脩め、加うるに鬱鬯を以てするは、魄に報ゆる所以なり。此れ民に本を修め、始めに反りて愛を崇び、上下情を用うるを教う。礼の至りなり。君子は古に反り始めに復り、其の由りて生ずる所を忘れず、是を以て其の敬を致す。其の情を発し、力を竭くして事に従い、敢えて自ら尽くさざること無し。此れを大教と謂う。昔者、文王の祭るや、死に事うること生に事うるが如く、死を思いて生を欲せず。忌日には則ち必ず哀しみ、諱を称すれば則ち見るが如し。親祀の忠なり。之れを思うこと深く、親の愛する所を見るが如し。祭りて、親の顔色を見んと欲する者は、其れ唯だ文王か。詩に云う、『明発寐ねず、二人を懐う』と。則ち文王の謂いか。祭りの明日、明発寐ねず、二人を懐い、敬いて之れを致し、又た従いて之れを思う。祭りの日は楽と哀と半ばし、之れを饗くれば必ず楽しみ、已に至れば必ず哀しむ。孝子の情なり、文王能く之れを得たりと為す。」
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『慎思録』巻之五鬼神は是れ陰陽の霊なり。是れ正解と為すべし。蓋し二気の変化、自ら是れ隠微にして、能く屈伸する者なり。故に曰く、之を見れども視えず、之を聞けども聴こえず、と。然るに程子曰く、鬼神は造化の迹なり、と。是れ姑く其の粗迹の見易き者に即きて其の実を示すのみ。其の迹とは、鬼神の為す所、便ち往来屈伸の発見する所、是れなり。其の理は見難く、其の迹は見易し。故に其の迹に即きて之を示すのみ。正に迹を鬼神と為すに非ざるなり。世人多く屈伸を以て鬼神を言ふ。屈伸は是れ陰陽の迹にして、其の能く屈伸を為す所以の者、是れ鬼神なることを知らず。古人曰く、鬼は帰なり、神は伸なり、と。是れ亦其の迹に即きて其の実を示すのみ。
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五行大義・第十四論雑配・第四論配蔵府心は神を蔵すとは、神は神明照了を以て義と為す。心は能く万事を明了するを言う。神は是れ身の君、火に象る、已に前の解の如し。腎は精を蔵すとは、精は精霊叡智を以て称と為す。亦是れ精智の気なり。腎の水は智巧なり、故に精焉(ここ)に蔵す。脾は志を蔵すとは、脾の土は四行を総ぶるを主り、趣向する所多し。志は心願趣向を以て目と為す、故に脾に蔵す。肝は魂を蔵すとは、魂は運動を以て名と為す。肝は是れ少陽、陽の性は運動す。木の性は仁、故に魂も亦善を主る。故に肝に蔵す。肺は魄を蔵すとは、魄は相著くを以て名と為す。肺は少陰たり、陰の性は恬静なり。金は殺を主り、魄も又悪を主る、故に以てこれを蔵す。五蔵の主る所は、乃ち神・精・志・魂・魄の五種を以てす。陰陽に就いて論ずれば、唯だ二別有るのみ。陽を魂と曰い、陰を魄と曰う。河上公の『章句』に云う、五気の清微なるは、精神・聡明・音声・五性と為る。その鬼を魂と曰う。魂は雄なり。鼻より出入することを主り、天と通ず。五味の濁溽(だくじょく)なるは、形骸・骨肉・血脈・六情と為る。その鬼を魄と曰う。魄は雌なり。口より出入し、地と通ず、と。『家語』に曰く、宰我(さいが)、孔子に問いて曰く、鬼神の名を聞くも、その謂う所を知らず、と。孔子曰く、人生まれて気有り。魂気は神の盛んなるものなり。魄気は鬼の盛んなるものなり。人生まれて死有り、死すれば必ず土に帰す、此れこれを鬼と謂う。魂気は天に帰す、此れこれを神と謂う。鬼と神とを合わせてこれを享(まつ)るは、教えの至りなり。
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