五行大義 / 第二弁体性
北方至陰。宗廟祭祀之象。冬。陽之所始。陰之所終。終始者。綱紀時也。死者魂氣上天爲神。魄氣下降爲鬼。精氣散在於外而不反。故爲之宗廟。以收散也。易曰。渙。亨。王假有廟。此之謂也。夫聖人之德。又何以加於孝乎。故天子親耕。以供粢盛。王后親蠶。以供祭服。敬之至也。敬之至。則鬼神報之以介福。此順水氣。水氣順。則如其性。如其性。則源泉通流。以利民用。若人君廢祭祀。慢鬼神。逆天時。則水失其性。水暴出。漂溢沒溺。壞城邑。爲人之害。故曰水不潤下也。
新字:北方至陰。宗廟祭祀之象。冬。陽之所始。陰之所終。終始者。綱紀時也。死者魂気上天為神。魄気下降為鬼。精気散在於外而不反。故為之宗廟。以収散也。易曰。渙。亨。王仮有廟。此之謂也。夫聖人之徳。又何以加於孝乎。故天子親耕。以供粢盛。王后親蠶。以供祭服。敬之至也。敬之至。則鬼神報之以介福。此順水気。水気順。則如其性。如其性。則源泉通流。以利民用。若人君廃祭祀。慢鬼神。逆天時。則水失其性。水暴出。漂溢没溺。壊城邑。為人之害。故曰水不潤下也。
書き下し
北方は至陰、宗廟祭祀の象なり。冬は陽の始まる所、陰の終わる所なり。終始は時を綱紀するなり。死者は魂気天に上りて神と為り、魄気下に降りて鬼と為る。精気は散じて外に在りて反らず。故に之が為に宗廟して、以て散を収むるなり。易に曰く、「渙(かん)は亨る。王有廟に仮(いた)る」と。此の謂いなり。夫れ聖人の徳、又何を以てか孝に加えんや。故に天子親ら耕して、以て粢盛(しせい)に供し、王后親ら蚕して、以て祭服に供す。敬の至りなり。敬の至りなれば、則ち鬼神之に報ゆるに介福を以てす。此れ水気に順うなり。水気順えば、則ち其の性の如し。其の性の如くなれば、則ち源泉通流して、以て民用を利す。若し人君祭祀を廃し、鬼神を慢り、天時に逆らえば、則ち水其の性を失い、水暴かに出で、漂溢没溺して、城邑を壊り、人の害を為す。故に水は潤下せずと曰うなり。
現代語訳
北方は陰の極みであり、宗廟の祭祀の象である。冬は陽が始まり陰が終わる時である。終わりと始まりは、時節を秩序立てる大もとである。死者は、魂の気が天に昇って神となり、魄の気が地に降りて鬼となる。精気は散らばって外にあり、戻ってこない。そこでそのために宗廟を建てて、散らばったものを収めるのである。『易』に「渙(ちらばる)の卦は通じる。王は廟に至る」とあるのは、このことをいう。そもそも聖人の徳として、孝よりも上に加えるものがあろうか。だから天子は自ら田を耕して、祭りに供える穀物を用意し、王后は自ら蚕を飼って、祭りの衣服を用意する。これは敬うことの極みである。敬うことが極まれば、鬼神は大きな福でこれに報いる。これが水の気に従うことである。水の気が順調であれば、水はその本性のとおりになる。本性のとおりであれば、泉の源から水がよく流れ通い、民の暮らしを潤す。もし君主が祭祀をやめ、鬼神をあなどり、天の時節に逆らえば、水はその本性を失い、にわかにあふれ出て、漂い溢れ人を溺れさせ、町や村を壊し、人々に害をなす。だから「水が潤下しない」というのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『呻吟語』内篇・倫理・福を求むるは已に君子の心に非ず郊社は、天地生成の大德に報ゆるなり。然れども災沴には禳有り、順成には祈有り。君の私田を為すは則ち仁、民の公田を為すは則ち忠なり。福を求むるを嫌はず、禍を免るるを嫌はず。子孫の先祖を祭るは、追養繼孝を以てなり。我が祖父母より此の身有るなり。曰く、「先人の澤に賴りて、以て其の餘慶を享く」と。曰く、「吾朝夕奉養して歡を承けしに、一旦復た杯棬を獻ぜず、心悲思して寄する無し、故に祭薦して以て吾が情を伸ぶるなり」と。曰く、「吾貧賤にして菽水を供するに足らず、今鼎食するも親逮ばず、心悲思して及ぶ莫し、故に祭薦して以て吾が悔いを志すなり」と。豈に其の遊魂虛位の能く我を福せんが為に之を求めんや。福を求むるは已に君子の心に非ず。而して一飯の設、數拜の勤を以て、福を先人に求む、仁孝誠敬の心果たして是くのごとくならんや。利を謀らず、報を責めず、其の感激を望まず。他人に在りてすら猶ほ然り、而るに況んや我が先人をや。『詩』の祭は必ず福を言ふ、而して『楚茨』の諸詩を尤も甚だしと為す、豈に訓と為す可けんや。吾獨り『采蘩』『采蘋』の二詩に取る有り。物を盡くし志を盡くし、以て吾が子孫の誠敬を達するのみ、他は及ばざるなり。此の道に明らかならば、則ち天下の萬事萬物皆我の當に為すべき所を盡くし、禍福利害は皆其の自ら至るに聽す。人事脩まりて外慕の心息み、道に向かふこと專らにして作輟の念忘れん。何者ぞ。性分に明らかにして冀悻する所無ければなり。
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