言志四録 / 言志耋録 第三百三十一条 漸を以て移る
老人終天數者。以漸而移。老漸善忘。忘甚則耄矣。耋之極乃亡。亡即澌。歸於原數矣。
新字:老人終天数者。以漸而移。老漸善忘。忘甚則耄矣。耋之極乃亡。亡即澌。帰於原数矣。
書き下し
老人の天数を終ふる者は、漸を以て移る。老いて漸く善く忘れ、忘るること甚しければ則ち耄す。耋の極は乃ち亡ぶ。亡ぶは即ち澌くるなり。原数に帰す。
現代語訳
老人が天から与えられた寿命を全うするときは、少しずつ移っていく。老いるとだんだん物忘れがひどくなり、忘れることがはなはだしくなると耄碌する。耋(八十歳の老い)の極みで、ついに亡くなる。亡くなるとは、尽き果てることである。もとの定められた数に帰るのである。
解説
天寿を全うする人の最期が、段階を追って少しずつ訪れることを冷静に描いた一条です。物忘れが増え、耄碌し、耋の極みで亡くなり、尽きて元の数に帰る。「澌」は水が尽きるように消えていくことを言います。『言志録』巻頭の一条で万事に定まった数があると述べた一斎が、ここで自らの死もまた「原数に帰す」と言い切っているのは印象的です。『言志録』第三条の「天道は漸を以て運る」という考えが、死にまで貫かれています。老いと死を恐れや嘆きでなく自然の過程として見つめる眼差しは、終わりをどう迎えるかを考える一つの手がかりになるでしょう。
この章句が説くこと
老い死生天数漸
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