都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
曰、何ゾ人倫ヲ可舍、又天地ニ散々ト決定スルニモアラズ、然レドモ、地獄極樂ヘ往ベキトモ不思、三世ノコトハ、定メテ無者ニテアラント思ヘリ、コレハ我バカリニモ非ズ、世間ニモ、決セヌ人モアルヤラン、或所ニ儒者ヲ專一ニ致シ、佛法ヲ議リ、且神社佛閣ヘ、友ニ誘レ參リテモ、曾テ拜ナドモセズシテ居ラレシガ、時節來テ病氣ヅキ、最早九死一生ト相見ヘシ時ニ、日頃緣類ユヘ、來リ因ム僧アリケレバ、臥ナガラ手ヲ合淚ヲ流シ、後世ノコト、返々頼入ルト申サレケリ、自身ニモ最期ニ望デハ、何トヤラ氣味アシク、日頃ノ血氣ニ任テ云時トハ、替ルモノニヤ、又我モ實ハサツバリトハセネドモ、佛者ニ聞モ口惜ク、其上佛者ニモ、
新字:曰、何ゾ人倫ヲ可舎、又天地ニ散々ト決定スルニモアラズ、然レドモ、地獄極楽ヘ往ベキトモ不思、三世ノコトハ、定メテ無者ニテアラント思ヘリ、コレハ我バカリニモ非ズ、世間ニモ、決セヌ人モアルヤラン、或所ニ儒者ヲ専一ニ致シ、仏法ヲ議リ、且神社仏閣ヘ、友ニ誘レ参リテモ、曽テ拝ナドモセズシテ居ラレシガ、時節来テ病気ヅキ、最早九死一生ト相見ヘシ時ニ、日頃縁類ユヘ、来リ因ム僧アリケレバ、臥ナガラ手ヲ合涙ヲ流シ、後世ノコト、返々頼入ルト申サレケリ、自身ニモ最期ニ望デハ、何トヤラ気味アシク、日頃ノ血気ニ任テ云時トハ、替ルモノニヤ、又我モ実ハサツバリトハセネドモ、仏者ニ聞モ口惜ク、其上仏者ニモ、
書き下し
曰く、何ぞ人倫を舎つべき。又天地に散々と決定するにもあらず。然れども、地獄極楽へ往べきとも思はず、三世のことは、定めて無者にてあらんと思へり。これは我ばかりにも非ず、世間にも、決せぬ人もあるやらん。或所に儒者を専一に致し、仏法を議り、且神社仏閣へ、友に誘れ参りても、曽て拝などもせずして居られしが、時節来て病気づき、最早九死一生と相見へし時に、日頃縁類ゆへ、来り因む僧ありければ、臥ながら手を合涙を流し、後世のこと、返々頼入ると申されけり。自身にも最期に望では、何とやら気味あしく、日頃の血気に任て云時とは、替るものにや。又我も実はさつばりとはせねども、仏者に聞も口惜く、其上仏者にも、
現代語訳
問う人「どうして人の道を捨てられましょう。また天地に散り散りになると決めているわけでもありません。けれども、地獄や極楽へ行くとも思いませんし、過去・現在・未来の三世のことは、きっと無いものだろうと思っています。これはわたしだけでなく、世間にも決めかねている人がいるでしょう。ある所に儒学一筋で仏法をそしり、友に誘われて神社仏閣へ参っても拝むことさえしなかった人がいましたが、時が来て病気になり、もはや九死に一生という様子になったとき、日ごろ縁続きで出入りしていた僧が来たので、寝たまま手を合わせて涙を流し、『後世のことを、くれぐれもお頼みします』と言われました。本人も最期に臨んでは何となく心細く、日ごろ血気にまかせて言っていたときとは変わるものなのでしょうか。またわたしも本当はすっきりしていませんが、仏者に聞くのも悔しく、そのうえ仏者にも、
解説
この章句が説くこと
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『茶の本』第六章 花・変化こそは唯一の永遠であるしかし、あまりに感傷的になることはやめよう。奢る事をいっそういましめて、もっと壮大な気持ちになろうではないか。老子いわく「天地不仁」。弘法大師いわく「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」。われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である。何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか。この二者はただ互いに相対しているものであって、梵の昼と夜である。古きものの崩解によって改造が可能となる。われわれは、無情な慈悲の神「死」をば種々の名前であがめて来た。
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呂氏春秋・愛士④凡そ敵人の來たるや、利を求むるを以てなり。今來たりて死を得れば、且く走ぐるを以て利と為す。敵皆走ぐるを以て利と為せば、則ち刃與に接する無し。故に敵、生を我に得れば、則ち我、死を敵に得。敵、死を我に得れば、則ち我、生を敵に得。夫れ生を敵に得ると、敵、生を我に得ると、豈に察せざる可けんや。此れ兵の精なる者なり。存亡死生は、此を知るに決せんのみ。
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孫子・始計篇孫子曰く、兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからず。
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『墨子』節葬下故に衣食なる者は、人の生の利なり。然も且つ猶お尚お節有り。葬埋なる者は、人の死の利なり。夫れ何ぞ獨り此に節無からんや。子墨子、制して葬埋の法を為りて曰く、棺は三寸、以て骨を朽ちしむるに足る。衣は三領、以て肉を朽ちしむるに足る。地を掘るの深さは、下は菹漏する無く、氣は上に發洩する無く、壟は以て其の所を期するに足れば、則ち止むのみ。哭して往き哭して來り、反りて衣食の財に從事し、祭祀に佴きて、以て孝を親に致す。故に曰く、子墨子の法、死生の利を失わざる者は、此れなり。故に子墨子言いて曰く、今、天下の士君子、咸な將に仁義を為し、上士たるを求めんと欲すと謂う。上は聖王の道に中らんと欲し、下は國家百姓の利に中らんと欲せば、故に當に節葬の政を為すが若きにして、察せざる可からざる者、此れなり。
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『呻吟語』外篇・廣喻・死生は只だ滴分に系かる一滴は一斝より多く、一分は一尋より長し。誰か細微忽せにす可しと謂はん。死生は只だ滴分に系かる。
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『武士道』第二章 武士道の淵源・仏教の与えたるもの武士道の淵源を繹ぬるに当り、予は先づ仏教を挙ぐべし。仏教は武士道に供するに、安心立命の志気、従容として運命の免るべからざるに服するの心念、危難災厄に臨みて、ストイック的なる沈着の情操、及び生を軽んじ、死を甘んずるの意気を以てせり。柳生但馬なりしか、彼が剣道の門弟たる三代将軍の、斯道の奥義を極めたるを見て、唯だ此上は禅を学び給へと申せし昔話もあり。禅とは梵語のディヤーナにて、小泉八雲氏は之を説明して、『冥想沈思の自力を以てして、言語文字を超脱せる思索界に転迷開悟するの法なり』と曰へり。禅の形式は思索なり、開悟なり。其理たる、予の暁解し得たる所を以て云へば、宇宙の森羅万象裡に伏在せる大秘義を覚悟し、其極意に到着せば、即ち能く絶対存在者を認識し、而して終に人間と絶対存在者とを調和せしむるものなりと。