言志四録 / 言志耋録 第三百三十六条 極老人の一死は睡るが如し
凡有生氣者畏死。生氣全盡。此念亦盡。故極老人一死如睡。
新字:凡有生気者畏死。生気全尽。此念亦尽。故極老人一死如睡。
書き下し
凡そ生気有る者は死を畏る。生気全く尽くれば、此の念も亦尽く。故に極老人の一死は睡るが如し。
現代語訳
およそ生きる気力のある者は死を恐れる。生きる気が完全に尽きれば、この恐れもまた尽きる。だから、きわめて年老いた人の死は、眠りにつくようなものである。
解説
死を恐れる心そのものが生気の働きであり、生気が尽きれば恐れも尽きるという一条です。だから極めて老いた人の死は、眠るように穏やかなのだと言います。死の恐怖を理屈で克服するのではなく、生の力が静かに退いていくにつれて恐れも自然に消えていくという、きわめて観察的な見方です。一一七一条で寿命の終わりを漸と描いたことと重なり、八十歳を過ぎた一斎自身が自らの内側にそれを感じていたのかもしれません。恐れは生きる力の裏返しであるという見方は、不安を感じること自体をどう受けとめるか、を考えるうえでも手がかりになります。
この章句が説くこと
死生老い恐れ生気
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