言志四録 / 言志耋録 第三百三十七条 我の我たる所以は死生の外に在り
釋以死生爲一大事。我則謂晝夜是一日之死生。呼吸是一時之死生。只是尋常事。然我之所以爲我者。葢在死生之外。須善自覓而自得之。
新字:釈以死生為一大事。我則謂昼夜是一日之死生。呼吸是一時之死生。只是尋常事。然我之所以為我者。葢在死生之外。須善自覓而自得之。
書き下し
釈は死生を以て一大事と為す。我は則ち謂ふ、昼夜は是れ一日の死生、呼吸は是れ一時の死生にして、只だ是れ尋常の事なりと。然れども我の我たる所以の者は、蓋し死生の外に在り。須らく善く自ら覓めて之を自得すべし。
現代語訳
仏教では生死を一大事とする。私はこう考える。昼と夜は一日の中の生と死であり、息を吐き吸うのは一刻の中の生と死であって、ごく当たり前のことにすぎない、と。しかし、私を私たらしめているものは、思うに生死の外にある。よく自分で探し求めて、自ら会得しなければならない。
解説
仏教が「生死事大」として死生を最大の問題とするのに対し、儒者の一斎は、昼夜の交替は一日の死生、呼吸は一瞬の死生であり、死生はありふれた出来事にすぎないと言います。そのうえで、我を我たらしめるものは死生の外にあり、自ら探し求めて自得せよと結びます。死生を超えた本当の自己とは、朱子学でいう本然の性、陽明学でいう良知とも読めるでしょう。仏教に対抗しつつ、自ら覓めよという言い方にはむしろ禅にも通じる響きがあり、朱子学と陽明学の間を歩んだ一斎の自由な思索が表れています。変わりゆく状況の中で変わらない自分の軸は何か、を問いかける条です。
この章句が説くこと
死生自得本性仏教
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