言志四録 / 言志録 第百三十六条 死に処する品等
氣節之士。貞烈之婦。其心有所激。不敢畏死。分死者之次也。血氣之勇輕死。狂惑之夫甘死。則下於畏死者。又如釋老之徒。處死頗有自得。然其學畢竟亦由畏死而來。獨極大老人生氣全盡。溘然無病以終者。則與安死者無異耳。
新字:気節之士。貞烈之婦。其心有所激。不敢畏死。分死者之次也。血気之勇軽死。狂惑之夫甘死。則下於畏死者。又如釈老之徒。処死頗有自得。然其学畢竟亦由畏死而来。独極大老人生気全尽。溘然無病以終者。則与安死者無異耳。
書き下し
気節の士、貞烈の婦は、其の心激する所有りて、敢て死を畏れず。死を分とする者の次なり。血気の勇は死を軽んじ、狂惑の夫は死に甘んず。則ち死を畏るる者に下れり。又釈老の徒の如きは、死に処すること頗る自得する有り。然れども其の学も畢竟亦死を畏るるに由りて来る。独り極大の老人、生気全く尽きて、溘然として病無くして以て終る者は、則ち死に安んずる者と異なる無きのみ。
現代語訳
節義を重んじる士や、貞節で気性の烈しい婦人は、心に激するものがあって、あえて死を恐れない。これは死を自分の分として受け入れる者(賢人)の次に位置する。血気にはやる勇気の者は死を軽んじ、狂い惑った者は死を甘んじて受ける。これらは死を恐れる者(常人)よりも下である。また仏教や老荘の徒などは、死に処するにあたってかなり悟ったところがある。しかしその学問も、結局は死を恐れる心から出てきたものである。ただ、きわめて高齢の老人が、生気をすっかり使い尽くし、病もなくふっと亡くなる場合だけは、死に安んずる者(聖人)と違いがないのである。
解説
前の条で示した「聖人は死に安んじ、賢人は死を分とし、常人は死を畏る」の三段に、さまざまな死に方を当てはめて位置づけています。節義や貞烈のために死を恐れないのは賢人に次ぐもの、血気や狂惑で死を軽んじるのは、かえって死を恐れる常人より下とされます。死を恐れないことそのものではなく、その心が何に根ざしているかを問うているのです。仏教や老荘の達観も、もとは死への恐れから出た学だと見るあたりに、儒者としての一斎の立場がうかがえます。勇ましく見える決断が、覚悟から出たものか、勢いや自暴自棄から出たものかを見分ける視点として読めます。
この章句が説くこと
死生気節血気の勇覚悟安死
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