言志四録 / 言志録 第百三十五条 臨死の一節
常人平素無一善可稱。而偶有及病篤。自知不起。遺囑不亂。如賢者之爲者。此則臨死一節似可取。然一種死病證候或有致然。是亦不可不知。
新字:常人平素無一善可称。而偶有及病篤。自知不起。遺囑不乱。如賢者之為者。此則臨死一節似可取。然一種死病証候或有致然。是亦不可不知。
書き下し
常人は平素一善の称すべき無し。而るに偶ま病篤きに及び、自ら起たざるを知りて、遺嘱乱れず、賢者の為す者の如き有り。此れ則ち死に臨むの一節、取るべきに似たり。然れども一種の死病の証候、或は然らしむる有り。是れも亦知らざるべからず。
現代語訳
ふだんは一つとして褒めるに足る善行もない普通の人が、たまたま病が重くなり、自分でもう起き上がれないと悟ると、遺言が少しも乱れず、まるで賢者のふるまいのように見えることがある。これは死に臨んだ一場面としては取るべきところがあるように思える。しかし、ある種の死に至る病の症状が、そうさせている場合もある。このこともまた知っておかなければならない。
解説
「聖人は死に安んじ、賢人は死を分とし、常人は死を畏る」に始まる、死生を論じた一連の条の一つです。平凡な人が臨終に見事な遺言を残すと、人はその最期をたたえがちです。一斎はそれを否定はしませんが、病の種類によっては意識が妙に澄みわたることがあり、立派に見える最期が必ずしも平生の修養の結果とは限らない、と冷静に付け加えます。人の値打ちは劇的な一場面ではなく、日々の積み重ねで量るべきだという、医学的な観察まで含めた醒めた目があります。人を評価するとき、印象的な一瞬に引きずられていないかを考えさせる一条です。
この章句が説くこと
死生臨終人物評価平生の修養
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