言志四録 / 言志耋録 第二百三十八条 文武に二致無し
世之爲武技者。玅處必歸之於禪理。而不知求之於吾儒。試思鄕黨一篇。聖人俯仰進退。一動一靜。莫不中節。卽是天來絕玅處。文武眞無二致。
新字:世之為武技者。玅処必帰之於禅理。而不知求之於吾儒。試思郷党一篇。聖人俯仰進退。一動一静。莫不中節。即是天来絶玅処。文武真無二致。
書き下し
世の武技を為す者は、玅処は必ず之を禅理に帰して、之を吾が儒に求むることを知らず。試みに郷党の一篇を思へ。聖人の俯仰進退、一動一静、節に中らざる莫し。即ち是れ天来の絶妙の処なり。文武は真に二致無し。
現代語訳
世の武芸をする者は、技の極意を必ず禅の道理に帰して、それをわれわれ儒学に求めることを知らない。試みに『論語』の郷党篇を考えてみよ。聖人(孔子)がうつむき仰ぎ、進み退く、一つの動き一つの静けさが、すべて節度にかなっている。これこそ天から授かった絶妙の境地である。文と武とは、本当に二つの別のものではない。
解説
武芸の極意を禅に求める風潮に対し、儒学にこそそれがあると説いた一条です。沢庵の『不動智神妙録』に見られるように、剣術の奥義を禅で語るのは当時広く行われていました。一斎はこれに対して論語の郷党篇を挙げます。郷党篇には孔子の立ち居振る舞い、朝廷での歩き方、衣服や食事の作法が細かく記され、そのすべてが節度にかなっている。この一挙一動の自然な的確さこそ、武芸の達人が目指す絶妙の境地と同じだと言うのです。前後に武芸の条を並べた一斎の結論が「文武に二致無し」です。日々の所作を整えることと、専門の技を磨くことを別物と考えていないか、振り返る材料になります。
この章句が説くこと
文武武芸所作中節修養
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