学論抄録 / 文と武は陰陽のように偏り立たない
道之有文武、猶天有陰陽、豈可偏立乎哉、故孔聖曰、有文事者、必有武備、自有文王武王之業、傳云文武之道、王世貞曰、孔子於兵、自云、我戰則必克、蒙谿張□曰、天不生仲尼、則斯文之統以墜、天不生尙父、則戡亂之武曷張、七書六經、固仁義一原之理、陰陽貞勝之符也、李卓吾曰、仁義一原、陰陽貞勝、則確論矣、夫天下未有有仁而無義、亦豈有有陽而無陰、獨陽不生、獨陰不成、謂文專指陽、而武專指陰、則不但不成武、而亦不成文矣、筑前府耆儒、久兵衞貝原子(名篤信號益軒先生)曰、古人左文右武、自古、不兼斯二者、而稱君子、未之有也、故文而不武、是謂腐儒、武而不文、是謂傖父、君子豈爲專文學而廢武備乎、對馬府宿儒、東五郎雨森子(字伯陽號芳洲先生)曰、冉求之戰於郎、而克之也、曰、學於孔子、則洙泗之敎、人也、籩豆雍容之暇、象箾綴兆之餘、未始不在乎武也、然而用正制奇之方、攻伐擊刺之術、所以不見於經者何也、蓋當春秋戰國之際、天下之所患、專在于用武、彼聖賢者有所深慮、故難於開口、固其宜也、世之學者徒讀其書、不察其心、昧乎理勢之源、闕乎和漢之情、以爲談武非吾儒事也、何以異乎取陽而舍陰、悅仁而忘義、遺大經而失通誼、可謂謬矣、徂徠物子釋衞靈公問陳於孔子一章曰、凡君有問焉、而答以未知未學者、古禮然也、軍旅君子之所必學也、
新字:道之有文武、猶天有陰陽、豈可偏立乎哉、故孔聖曰、有文事者、必有武備、自有文王武王之業、伝云文武之道、王世貞曰、孔子於兵、自云、我戦則必克、蒙谿張□曰、天不生仲尼、則斯文之統以墜、天不生尚父、則戡乱之武曷張、七書六経、固仁義一原之理、陰陽貞勝之符也、李卓吾曰、仁義一原、陰陽貞勝、則確論矣、夫天下未有有仁而無義、亦豈有有陽而無陰、独陽不生、独陰不成、謂文専指陽、而武専指陰、則不但不成武、而亦不成文矣、筑前府耆儒、久兵衛貝原子(名篤信号益軒先生)曰、古人左文右武、自古、不兼斯二者、而称君子、未之有也、故文而不武、是謂腐儒、武而不文、是謂傖父、君子豈為専文学而廃武備乎、対馬府宿儒、東五郎雨森子(字伯陽号芳洲先生)曰、冉求之戦於郎、而克之也、曰、学於孔子、則洙泗之教、人也、籩豆雍容之暇、象箾綴兆之余、未始不在乎武也、然而用正制奇之方、攻伐撃刺之術、所以不見於経者何也、蓋当春秋戦国之際、天下之所患、専在于用武、彼聖賢者有所深慮、故難於開口、固其宜也、世之学者徒読其書、不察其心、昧乎理勢之源、闕乎和漢之情、以為談武非吾儒事也、何以異乎取陽而舎陰、悦仁而忘義、遺大経而失通誼、可謂謬矣、徂徠物子釈衛霊公問陳於孔子一章曰、凡君有問焉、而答以未知未学者、古礼然也、軍旅君子之所必学也、
書き下し
道に文武有るは、猶ほ天に陰陽有るがごとし。豈に偏り立つべけんや。故に孔聖曰く、文事有る者は、必ず武備有り、と。自ら文王武王の業有り。伝に文武の道と云ふ。王世貞曰く、孔子兵に於いて、自ら云ふ、我戦へば則ち必ず克つ、と。蒙谿張□曰く、天仲尼を生ぜずんば、則ち斯文の統以て墜ちん。天尚父を生ぜずんば、則ち戡乱の武曷ぞ張らん。七書六経は、固より仁義一原の理、陰陽貞勝の符なり、と。李卓吾曰く、仁義一原、陰陽貞勝は、則ち確論なり。夫れ天下未だ仁有りて義無き有らず、亦た豈に陽有りて陰無き有らんや。独陽は生ぜず、独陰は成らず。文は専ら陽を指し、武は専ら陰を指すと謂はば、則ち但だに武を成さざるのみならず、而も亦た文を成さず、と。筑前府の耆儒、久兵衛貝原子(名は篤信、号は益軒先生)曰く、古人は文を左にし武を右にす。古より、斯の二つを兼ねずして君子と称する者は、未だ之れ有らざるなり。故に文にして武ならざる、是を腐儒と謂ひ、武にして文ならざる、是を傖父と謂ふ。君子豈に専ら文学を為して武備を廃せんや、と。対馬府の宿儒、東五郎雨森子(字は伯陽、号は芳洲先生)曰く、冉求の郎に戦ひて之に克つや、曰く、孔子に学ぶ、と。則ち洙泗の教へは、人なり。籩豆雍容の暇、象箾綴兆の余、未だ始めより武に在らずんばあらざるなり。然り而して用正制奇の方、攻伐撃刺の術、経に見えざる所以の者は何ぞや。蓋し春秋戦国の際に当たり、天下の患ひは、専ら武を用ふるに在り。彼の聖賢なる者深く慮る所有り、故に口を開くに難きは、固より其の宜しきなり。世の学者徒らに其の書を読みて、其の心を察せず、理勢の源に昧く、和漢の情を闕き、以為へらく武を談ずるは吾が儒の事に非ずと。何ぞ陽を取りて陰を舎て、仁を悦びて義を忘るるに異ならんや。大経を遺れて通誼を失ふ、謬れりと謂ふべし、と。徂徠物子、衛霊公陳を孔子に問ふの一章を釈して曰く、凡そ君問ふこと有りて、答ふるに未だ知らず未だ学ばざるを以てする者は、古礼然り。軍旅は君子の必ず学ぶ所なり。
現代語訳
道に文と武があるのは、天に陰と陽があるのと同じです。どちらか一方だけを立てることなどできるでしょうか。ですから孔子は「文の事を行う者には、必ず武の備えがある」と言いました。もとより文王・武王の事業があり、伝には「文武の道」と言います。王世貞は「孔子は兵事について、自ら『私が戦えば必ず勝つ』と言った」と述べています。蒙谿の張(底本で判読できない字)は「天が仲尼(孔子)を生まなければ、斯文(学問・礼楽)の系統は墜ちただろう。天が尚父(太公望)を生まなければ、乱を平らげる武はどうして張られただろうか。七書(兵書)と六経(儒教の経典)は、もとより仁と義が一つの源であるという理、陰陽が正しく勝つという符である」と言います。李卓吾は「仁義は一つの源、陰陽は正しく勝つ、というのは確かな論である。天下に仁があって義がないということはなく、陽があって陰がないということもない。陽だけでは生じず、陰だけでは成らない。文はもっぱら陽を指し、武はもっぱら陰を指すというなら、武が成らないだけでなく、文も成らない」と言います。筑前藩の老儒で、久兵衛、貝原子(名は篤信、号は益軒先生)は「古人は文を左、武を右にした。昔からこの二つを兼ねないで君子と称された者はいない。だから文はあっても武のない者を腐った儒者といい、武はあっても文のない者を粗野な男という。君子がどうして文学ばかりして武の備えを捨てられるだろうか」と言います。対馬藩の老儒で、東五郎、雨森子(字は伯陽、号は芳洲先生)は「冉求が郎で戦って勝ったとき、『孔子に学んだ』と言った。とすれば洙水・泗水の教え(孔子の教え)は人の道である。籩豆(祭器)を並べてゆったり礼を行う合間や、象箾・綴兆(舞楽)の余暇にも、はじめから武に関わらないことはなかった。それなのに、正を用いて奇を制する方法や、攻め討ち撃ち刺す術が経書に見えないのはなぜか。思うに春秋戦国のころ、天下の患いは専ら武を用いることにあり、あの聖賢たちは深く思うところがあって、口にしにくかったのは当然のことである。世の学者はむなしくその書を読むだけでその心を察せず、理と勢の源に暗く、日本と中国の事情にも欠け、武を語るのは我ら儒者の事ではないと思っている。これは陽を取って陰を捨て、仁を喜んで義を忘れるのと何が違うだろう。大経を忘れ、通じた道理を失っている。誤りと言うべきである」と言います。徂徠の物子は、衛の霊公が孔子に陣立てを問うた一章を解釈して言います。「そもそも君主に問われて、まだ知りません、まだ学んでいませんと答えるのは、古の礼がそうであった。軍旅は君子が必ず学ぶべきものである。
解説
この章句が説くこと
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