言志四録 / 言志晩録 第九十条 武に居て文を学ぶ
士而志於文。是居武而學文也。勿虛文以柔惰。勿虛武以躁暴。
新字:士而志於文。是居武而学文也。勿虚文以柔惰。勿虚武以躁暴。
書き下し
士にして文に志すは、是れ武に居て文を学ぶなり。虚文にして以て柔惰なること勿れ。虚武にして以て躁暴なること勿れ。
現代語訳
武士でありながら学問に志すのは、武の身分にいて文を学ぶということである。中身のない文にかまけて軟弱・怠惰になってはならない。中身のない武に走って、せっかちで乱暴になってはならない。
解説
前条に続き、武士が学問をすることの意味を述べた条です。武士が文に志すのは、武という立場に身を置いたまま文を学ぶことであって、武を捨てて文人になることではありません。そのうえで一斎は両方向の失敗を戒めます。文が上辺だけになれば柔弱で怠惰になり、武が上辺だけになれば気短で乱暴になる。文武いずれも中身を伴わなければ、かえって偏りを生むというのです。武家社会の中で儒学を講じた一斎は、学問をする武士が柔弱と見られることも、学のない武が粗暴に流れることも知っていたのでしょう。専門と教養、実務と理論をどう併せ持つかという現代の問いにも重なります。
この章句が説くこと
文武学問柔惰躁暴中庸
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