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言志四録 / 言志耋録 第二百二十四条 古書は悉くは信ずべからず

古書固宜信。而有未必可悉信者。余甞謂在昔通用器物。當時無筆記其形狀者。至歷年之久。其器亦乏。而人或慮其及後失眞。因記錄之。圖畫之。以貽諸後。然至其時。則記錄圖畫。亦既頗有繆傳也。至於書籍。如儀禮周官。亦與此相類。葢周季人憫古禮之將泯。記錄其所聞。以貽諸後。其間有不可全信者。與古器物形狀之有紕繆同一理。至謂之周公所著。則固妄誕亡論耳。

新字:古書固宜信。而有未必可悉信者。余甞謂在昔通用器物。当時無筆記其形状者。至歴年之久。其器亦乏。而人或慮其及後失真。因記録之。図画之。以貽諸後。然至其時。則記録図画。亦既頗有繆伝也。至於書籍。如儀礼周官。亦与此相類。葢周季人憫古礼之将泯。記録其所聞。以貽諸後。其間有不可全信者。与古器物形状之有紕繆同一理。至謂之周公所著。則固妄誕亡論耳。

書き下し

古書は固より宜しく信ずべし。而も未だ必ずしも悉く信ずべからざる者有り。余嘗て謂ふ、在昔通用の器物は、当時其の形状を筆記する者無し。歴年の久しきに至りて、其の器も亦乏し。而して人或いは其の後に及びて真を失はんことを慮り、因りて之を記録し、之を図画して、以て諸を後に貽す。然れども其の時に至れば、則ち記録図画も、亦既に頗る繆伝有るなり。書籍に至りても、儀礼・周官の如きは、亦此と相類す。蓋し周季の人、古礼の将に泯びんとするを憫み、其の聞く所を記録して、以て諸を後に貽す。其の間に全くは信ずべからざる者有るは、古器物の形状の紕繆有ると同一の理なり。之を周公の著す所と謂ふに至りては、則ち固より妄誕にして論ずる亡きのみ。

現代語訳

古い書物はもとより信ずべきものである。しかし、必ずしもすべてを信じてよいとは限らないものもある。私はかつてこう言ったことがある。昔ふつうに使われていた器物は、当時その形を書き留める者がいなかった。長い年月がたつと、その器も乏しくなる。そこで人は、後世になって本当の姿が失われるのを心配して、それを記録し、絵に描いて後世に残す。しかしその時点ではすでに、記録や絵にもかなり誤って伝わったところがあるのである。書物についても、『儀礼』や『周官』(周礼)などは、これと同じ類である。思うに、周の末期の人が古い礼の滅びようとするのを憂えて、聞き知ったことを記録し、後世に残したのであろう。その中に全面的には信じられないところがあるのは、古い器物の形状に誤りがあるのと同じ道理である。それを周公(周の制度を定めた聖人)の著作だと言うに至っては、もとよりでたらめで論ずるまでもない。

解説

古典をどこまで信じるかについて、一斎の批判的な目が表れた一条です。日常の器物は、ありふれている間は誰も記録せず、失われかけてから慌てて記録するので、その時にはもう誤りが混じっている。儀礼や周礼も同じで、周の末に古礼の衰えを憂えた人々が伝聞を書き留めたものだから、全面的には信じられない。まして周公の著作とするのは論外だと断じます。周礼を周公の作とするのは伝統的な説で、それを退けるのは儒官としてはかなり踏み込んだ発言です。記録はいつ、誰が、何のために残したのかを問う姿勢は、社内の文書や過去の資料を扱うときにもそのまま通じます。

この章句が説くこと

考証古典批判精神記録読書

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