言志四録 / 言志耋録 第百八十一条 非常の人は気習を著けず
余年來多視人。人各有氣習。或以地位。或以土俗。或藝能。或家業。皆有不同。余先觀其氣習。輙卜其爲何種人。大抵不錯也。唯非常人。則豎看橫看。不著氣習。罕見斯人。葢加人一等爾。
新字:余年来多視人。人各有気習。或以地位。或以土俗。或芸能。或家業。皆有不同。余先観其気習。輙卜其為何種人。大抵不錯也。唯非常人。則豎看横看。不著気習。罕見斯人。葢加人一等爾。
書き下し
余年来多く人を視る。人各気習有り。或は地位を以てし、或は土俗を以てし、或は芸能、或は家業、皆同じからざる有り。余先づ其の気習を観て、輙ち其の何種の人為るかを卜するに、大抵錯らざるなり。唯非常の人は、則ち竪に看、横に看るも、気習を著けず。罕に斯の人を見る。蓋し人に加ふること一等なるのみ。
現代語訳
私は長年、多くの人を見てきた。人にはそれぞれ気風や習い性がある。地位によるもの、土地の風俗によるもの、技芸によるもの、家業によるものなど、みな異なっている。私はまずその気風と習い性を観て、すぐにその人がどういう種類の人かを推し量るが、たいてい外れることはない。ただ非凡な人だけは、縦から見ても横から見ても、そうした気習が身についていない。こういう人にはめったに出会わない。思うに、常人より一段上の人なのであろう。
解説
長年多くの人に接してきた一斎の、人物観察の経験則です。武士か町人か、どの土地の出身か、どんな技芸や家業に携わっているかで、人には独特の気風や癖が染みつきます。一斎はそれを見れば大抵その人の素性が分かると言います。儒官として大名から市井の学生まで幅広く接した人ならではの自負でしょう。ところが、ごくまれに、どこから見てもそうした色がつかない人がいる。立場や職業の型にとらわれず、自分の器で物事に当たる人です。一斎はそれを「人に加ふること一等」と評します。専門や所属の文化に染まるのは自然なことですが、その型を自覚し、ときに越えられるかどうかが器の差になるのかもしれません。
この章句が説くこと
気習人を見る目非凡器量人物観察
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