言志四録 / 言志耋録 第五十二条 知行は一の了の字
就心曰知。知卽行之知。就身曰行。行即知之行。譬猶聞人語了之。諾就口。頷就身。等是一了字。
新字:就心曰知。知即行之知。就身曰行。行即知之行。譬猶聞人語了之。諾就口。頷就身。等是一了字。
書き下し
心に就きて知と曰ふ。知は即ち行の知なり。身に就きて行と曰ふ。行は即ち知の行なり。譬へば猶ほ人の語を聞きて之を了するがごとし。諾するは口に就き、頷くは身に就く。等しく是れ一の了の字なり。
現代語訳
心の面から言えば「知」という。その知は行いとしての知である。身の面から言えば「行」という。その行いは知としての行いである。たとえば人の話を聞いて了解するようなものだ。「はい」と応えるのは口の働き、うなずくのは身の働きだが、どちらも同じ「了解した」という一つのことである。
解説
王陽明の「知行合一」を、身近なたとえで説明した一条です。心の側から見れば知、身の側から見れば行と呼ぶだけで、知は行いとしての知、行いは知としての行いだと一斎は言います。そのたとえが巧みです。人の話を聞いて了解したとき、口で「はい」と言うのも、首でうなずくのも、同じ一つの「了解」の表れにすぎない。知ることと行うことも、そのように本来一つだというのです。わかっているのにできない、という状態は、陽明学から見ればまだ本当にはわかっていないということになります。報告を聞いて「わかった」と答えたとき、それが行動に結びついているかを考えるきっかけになる言葉です。
この章句が説くこと
知行合一陽明学理解実践心身
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