驢鞍橋 / 卷上
一日去る人西國巡禮を思ひ立ち、師を辭して曰く、此中承はる自己を守るの段、心得難し、彌示し給へ。師聞て曰、自己を守る事成るへからず、只念佛申して行脚すへし。又は油斷無く咒陀羅尼をくり、何千返何万返と巡禮札に書付け、處々に打巡つて業障を盡すへし。其自己の沙汰先々にてしてくれめさるゝな、ふつゝと無用にめされよ。只乞食し佛行を作して業障を盡さるへし。少し意など移りたると云ふとも、業障を盡さねば何の用にも立たぬ物也。責めて死苦を受けぬ程に勤むべし。大略責められめされんず、愚に思ひめさるゝなと也。
新字:一日去る人西国巡礼を思ひ立ち、師を辞して曰く、此中承はる自己を守るの段、心得難し、弥示し給へ。師聞て曰、自己を守る事成るへからず、只念仏申して行脚すへし。又は油断無く咒陀羅尼をくり、何千返何万返と巡礼札に書付け、処々に打巡つて業障を尽すへし。其自己の沙汰先々にてしてくれめさるゝな、ふつゝと無用にめされよ。只乞食し仏行を作して業障を尽さるへし。少し意など移りたると云ふとも、業障を尽さねば何の用にも立たぬ物也。責めて死苦を受けぬ程に勤むべし。大略責められめされんず、愚に思ひめさるゝなと也。
書き下し
一日去る人西国巡礼を思ひ立ち、師を辞して曰く、此中承はる自己を守るの段、心得難し、弥示し給へ。師聞て曰、自己を守る事成るへからず、只念仏申して行脚すへし。又は油断無く咒陀羅尼をくり、何千返何万返と巡礼札に書付け、処々に打巡つて業障を尽すへし。其自己の沙汰先々にてしてくれめさるゝな、ふつゝと無用にめされよ。只乞食し仏行を作して業障を尽さるへし。少し意など移りたると云ふとも、業障を尽さねば何の用にも立たぬ物也。責めて死苦を受けぬ程に勤むべし。大略責められめされんず、愚に思ひめさるゝなと也。
現代語訳
ある日、ある人が西国巡礼を思い立ち、師のもとを辞して言った。以前うかがった、自己を守るという段が、どうしても腑に落ちません。もう少しお示しください。師は聞いて言われた。自己を守ることはできないだろう。ただ念仏を申して行脚しなさい。あるいは油断なく呪文や陀羅尼を繰り、何千遍、何万遍と巡礼札に書きつけ、あちこちを巡り歩いて業障を尽くしなさい。その自己のことを行く先々で話してくれるな。すっぱりと無用にしなさい。ただ乞食し、仏道の行をして業障を尽くしなさい。少し意味が分かったと言っても、業障を尽くさなければ何の役にも立たないものだ。せめて死の苦しみを受けない程度に勤めなさい。たいていは責められるだろう。愚かに思ってはならない、と。
解説
この章句が説くこと
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『茶の本』第一章 人情の碗・与えるために行き、受けようとしない不幸にして、西洋の態度は東洋を理解するに都合が悪い。キリスト教の宣教師は与えるために行き、受けようとはしない。諸君の知識は、もし通りすがりの旅人のあてにならない話に基づくのでなければ、わが文学の貧弱な翻訳に基づいている。ラフカディオ・ハーンの義侠的ペン、または『インド生活の組織』の著者のそれが、われわれみずからの感情の松明をもって東洋の闇を明るくすることはまれである。