言志四録 / 言志耋録 第五十条 霊光の真我たるを見る
端坐內省。做心工夫。宜先自認其主宰也。省者我歟。所省者我歟。心固我。軀亦我。爲此言者果誰歟。是之謂自省。自省之極。乃見靈光之爲眞我。
新字:端坐内省。做心工夫。宜先自認其主宰也。省者我歟。所省者我歟。心固我。躯亦我。為此言者果誰歟。是之謂自省。自省之極。乃見霊光之為真我。
書き下し
端坐内省して、心の工夫を做すには、宜しく先づ自ら其の主宰を認むべきなり。省みる者は我か、省みらるる所の者は我か。心は固より我なり、軀も亦我なり。此の言を為す者は果して誰か。是を之れ自省と謂ふ。自省の極、乃ち霊光の真我たるを見る。
現代語訳
姿勢を正して座り、内に省みて心の修養をするには、まず自分の中の主宰者を見きわめるのがよい。省みているのが私なのか、省みられているのが私なのか。心はもとより私であり、体もまた私である。では、こう言っているのはいったい誰なのか。これを自省という。自省をきわめたとき、心の霊妙な光こそが本当の自分であることが見えてくる。
解説
静坐して自分を省みるとき、まず問うべきは「省みているのは誰か」だと一斎は言います。省みる私と、省みられる私。心も私、体も私。ではそう語っている者は誰なのか。問いを重ねて主体をたどっていく書き方は、禅の公案を思わせますが、行き着く先は一斎が繰り返し語る「霊光」、すなわち人が本来持つ明らかな心の働きです。陽明学の良知に近いこの霊光こそが真の自分だというのです。反省というと、失敗や欠点を数え上げることに終わりがちです。しかし一斎の自省は、何が自分を動かしているのかという根本を見つめる営みでした。振り返りの質を一段深めたいときに参考になる視点です。
この章句が説くこと
自省内省主宰霊光真我静坐
関連する章句
-
論語・公冶長篇子曰く、已んぬるかな。吾未だ能く其の過を見て、内に自ら訟むる者を見ざるなり。
-
『了凡四訓』立命之學・余は福薄し因りて問ふ「孔公、汝の終身を算すること若何」と。余、實を以て告ぐ。雲谷曰く「汝自ら揣るに、應に科第を得べきや否や。應に子を生むべきや否や」と。 余、追省すること良久しくして、曰く「應ぜざるなり。科第中の人は、類ね福相有り。余は福薄く、又た功を積み行を累ねて、以て厚福を基する能はず。兼ねて煩劇に耐へず、人を容るる能はず。時に或いは才智を以て人を蓋ひ、直心直行、輕言妄談す。凡そ此れ皆な薄福の相なり。豈に科第に宜しからんや。
-
『甲陽軍鑑』品第四十但しさやうの人は我心よきまゝに大略の人をあさくみて自慢の意地ある者なり、とてもの儀に慢気なくして、年增をばうやまい、年おとりを引きたて、同年をばたがひにうちとけ、其中によく近づく人のたらぬ事ある共よく異見を仕り、惣別人も我もよきやうにと存知、少しもへつらふたる儀いでば、心に心を耻る人は何に付けても大きにほめたる事なりといふて、
-
説苑・君道宋大水す。魯人之を弔いて曰く、「天淫雨を降らし、谿谷満盈し、延いて君の地に及び、以て執政を憂えしむ、臣をして敬んで弔わしむ」と。宋人之に応えて曰く、「寡人不佞にして、斎戒謹まず、邑封修まらず、人を使うこと時ならず、天殃を加え、又君の憂いを遺す、命を拝するの辱を」と。君子之を聞きて曰く、「宋国其れ庶幾からんか」と。問いて曰く、「何の謂いぞや」と。曰く、「昔夏の桀殷の紂は其の過ちを任ぜず、其の亡ぶるや忽焉たり。成湯文武は其の過ちを任ずることを知り、其の興るや勃焉たり。夫れ過ちて之を改むるは、是れ猶お過たざるがごとし。故に曰く其れ庶幾からんかと」と。宋人之を聞き、夙に興き夜に寐ね、早に朝し晏に退き、死を弔い疾を問い、力を宇内に戮す。三年にして、歳豊かに政平らかなり。嚮に宋人をして君子の語を聞かざらしめば、則ち年穀未だ豊かならずして国未だ寧からず。詩に曰く、「時の仔肩を佛け、我に顕徳の行いを示す」と、此を之れ謂うなり。
-
人物志・釋爭若し彼賢にして我が前に処らば、則ち我が徳の未だ至らざるなり。
-
葉隠・聞書第一若き時分、残念記と名づけて、その日その日の誤りを書き付けて見たるに、二十・三十なき日はなし。果てもなく候。今にも一日の事を寝てから案じて見れば、言ひそこなひ、仕そこなひのなき日はなし。さても成らぬものなり。利発任せにする人は、了簡(りょうけん)に及ばざることなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る