言志四録 / 言志耋録 第三条 経書を読むは我が心を読むなり
讀經書。即讀我心也。勿認做外物。讀我心。即讀天也。勿認做人心。
新字:読経書。即読我心也。勿認做外物。読我心。即読天也。勿認做人心。
書き下し
経書を読むは、即ち我が心を読むなり。認めて外物と做すこと勿れ。我が心を読むは、即ち天を読むなり。認めて人心と做すこと勿れ。
現代語訳
経書を読むことは、すなわち自分の心を読むことである。経書を自分の外にある物だと考えてはならない。自分の心を読むことは、すなわち天を読むことである。それを単なる人の心だと考えてはならない。
解説
経書の言葉を、自分と無関係な外の知識として読むのでなく、自分の心に照らして読めと一斎は言います。聖賢が書き留めた道理は、もともと自分の心にも具わっているものだからです。さらにその心は、個人的な思いにとどまらず天の理とつながっている。書物、心、天が一続きになるという考えは、「心即理」を説いた陽明学に近く、朱子学を講じる立場にありながら心の自得を重んじた一斎らしい読書論です。本を読んで知識が増えても、自分の中で何が動いたのかが問われなければ、読んだことにはならない。読書や研修の受け止め方を見直す手がかりになる一条です。
この章句が説くこと
読書心天自得経書
関連する章句
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