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言志四録 / 言志晩録 別存 第四十四条 一斎の履歴

余齡二十一時。快烈公猶在巖邑藩。從臾余西遊。貺詩曰。三尺凝霜識者稀。終敎紫氣斗邊微。風雨何時開匣去。延平津畔化龍飛。并貺遊學資若干。乃蒯緱獨步。抵浪速。主間大業家。從遊竹山先生。居半年。日夜在側。討論經義。輙至夜半。先生乃喜其切問。不以爲可厭。然數有鄕信。兩慈手書沓至。不得已而決歸。先生有詩見貺。曰。聞君客迹自濃藩。目擊倶欣吾道存。累旬未極新知樂。歸路俄驚遠別魂。世故易擡雙白眼。詞場且對一靑樽。玅年將任斯文責。何日遊踪再及門。又書一行大字見貺。其語爲困而後寤。仆而復興八字。余問出處。先生曰。仆而復興。爲王文成語。首句則今臨筆加之耳。又設餞讌。使嗣子伯毅爲主。既東歸。執贄於簡順林公。借寓其邸內間宅。是時快烈公毎來我寓。相與講習如故。居無何。簡順公捐舘。會先朝新政。賢良彙進。特命快烈公承後林氏。而余先在焉。因正師弟之名。以至於終身。故余於快烈公。不特講學。而平生內外事。亦皆無所不與焉。殆乎人間可有一而不可有二者。余今何幸際會盛時。老年蒙擢。無能爲也。然公之靈有知。將展眉於地下歟。略錄履歴貽諸後。

新字:余齢二十一時。快烈公猶在巖邑藩。従臾余西遊。貺詩曰。三尺凝霜識者稀。終教紫気斗辺微。風雨何時開匣去。延平津畔化竜飛。并貺遊学資若干。乃蒯緱独歩。抵浪速。主間大業家。従遊竹山先生。居半年。日夜在側。討論経義。輙至夜半。先生乃喜其切問。不以為可厭。然数有郷信。両慈手書沓至。不得已而決帰。先生有詩見貺。曰。聞君客迹自濃藩。目撃倶欣吾道存。累旬未極新知楽。帰路俄驚遠別魂。世故易擡双白眼。詞場且対一青樽。玅年将任斯文責。何日遊踪再及門。又書一行大字見貺。其語為困而後寤。仆而復興八字。余問出処。先生曰。仆而復興。為王文成語。首句則今臨筆加之耳。又設餞讌。使嗣子伯毅為主。既東帰。執贄於簡順林公。借寓其邸内間宅。是時快烈公毎来我寓。相与講習如故。居無何。簡順公捐舘。会先朝新政。賢良彙進。特命快烈公承後林氏。而余先在焉。因正師弟之名。以至於終身。故余於快烈公。不特講学。而平生内外事。亦皆無所不与焉。殆乎人間可有一而不可有二者。余今何幸際会盛時。老年蒙擢。無能為也。然公之霊有知。将展眉於地下歟。略録履歴貽諸後。

書き下し

余齢二十一の時、快烈公猶ほ巌邑藩に在り、余に従臾して西遊せしむ。詩を貺りて曰く、「三尺の凝霜識る者稀なり、終に紫気をして斗辺に微ならしむ。風雨何れの時か匣を開きて去り、延平津畔龍と化して飛ばん」と。并せて遊学の資若干を貺る。乃ち蒯緱独歩して、浪速に抵り、間大業の家に主とし、竹山先生に従遊す。居ること半年、日夜側に在りて、経義を討論し、輙ち夜半に至る。先生乃ち其の切問を喜び、以て厭ふべしと為さず。然れども数々郷信有り、両慈の手書沓至す。已むを得ずして帰るを決す。先生詩有りて貺らる。曰く、「聞く君が客迹濃藩よりすと、目撃倶に欣ぶ吾が道の存するを。累旬未だ新知の楽しみを極めざるに、帰路俄かに驚く遠別の魂。世故擡げ易し双白眼、詞場且く対す一青樽。妙年将に斯文の責に任ぜんとす、何れの日か遊踪再び門に及ばん」と。又一行の大字を書して貺らる。其の語は「困しみて後寤め、仆れて復た興る」の八字たり。余出処を問ふ。先生曰く、「仆れて復た興るは、王文成の語たり。首句は則ち今筆に臨みて之を加ふるのみ」と。又餞讌を設け、嗣子伯毅をして主たらしむ。既に東帰して、贄を簡順林公に執り、其の邸内の間宅に借寓す。是の時快烈公毎に我が寓に来り、相与に講習すること故の如し。居ること何も無くして、簡順公館を捐つ。会々先朝の新政、賢良彙進す。特に快烈公に命じて林氏を承後せしむ。而して余先に在り。因りて師弟の名を正し、以て終身に至る。故に余の快烈公に於ける、特に講学のみならず、平生内外の事も、亦皆与らざる所無し。殆ど人間一有るべくして二有るべからざる者なり。余今何の幸ひぞ盛時に際会し、老年擢を蒙る。能く為す無きなり。然れども公の霊知る有らば、将に眉を地下に展べんとするか。略々履歴を録して諸を後に貽す。

現代語訳

私が二十一歳のとき、快烈公(林述斎)はまだ岩村藩(美濃)におられ、私に西方への遊学を勧めてくださった。詩を贈って言うには、「三尺の霜のように冴えた名剣を見抜く者はまれで、ついにはその紫の剣気も北斗のあたりにかすかに見えるばかりとなる。風雨の中、いつの日か箱を開いて飛び出し、延平の渡し場で龍と化して天に昇るのだろう」と(才ある者がいずれ世に出ることを名剣の故事にたとえた)。あわせて遊学の費用もいくらか下さった。そこで貧しい身なりのまま一人で旅立ち、大坂に着いて、間大業(間重富)の家に身を寄せ、中井竹山先生のもとで学んだ。半年ほど滞在し、日夜先生のそばで経書の意義を論じ合い、しばしば夜半に及んだ。先生は私の切実な問いを喜び、うるさがることはなかった。しかし郷里からたびたび便りがあり、両親の手紙が次々と届いたので、やむをえず帰ることに決めた。先生は詩を贈ってくださった。「聞けば君は美濃の藩から旅して来たという。会ってみて、ともにわが道がここに生きていることを喜んだ。数十日を重ねてもまだ新しい知己の楽しみを尽くさぬうちに、帰り道と聞いて、にわかに遠い別れに心が驚く。世の中の事にはつい白い目を向けたくなるが、詩文の席ではひとまず一杯の酒に向かおう。若くしてこれから斯文(儒学の道)の責任を担おうとする君が、いつの日かまたこの門を訪ねてくれるだろうか」と。また一行の大字を書いて下さった。その言葉は「困しみて後に寤め、仆れて復た興る」の八字であった。私が出典を尋ねると、先生は「仆れて復た興るは王文成(王陽明)の言葉である。前の句は、いま筆を執るにあたって私が加えたにすぎない」と言われた。また送別の宴を設け、跡継ぎの伯毅を主人役にされた。江戸に帰ってから、簡順林公(林錦峯)に入門の礼をとり、その屋敷内の空き家に仮住まいした。このころ快烈公はいつも私の住まいに来られ、以前と同じように一緒に講習した。ほどなく簡順公が亡くなった。ちょうど先代の将軍の新しい政治(寛政の改革)で賢才が次々に登用され、特に快烈公に命じて林家を継がせた。私はそれより先に林家の門にいた。そこで師弟の名分を正し、それが生涯続いた。だから私と快烈公との間柄は、学問の講義だけでなく、日頃の公私にわたる事柄にも、関わらないものはなかった。人の世に一度はあっても、二度とはありえない縁である。私はいま何という幸いか、盛んな御代にめぐり合い、老年になって抜擢を受けた。何もできない身ではあるが、公の霊に知るところがあれば、地下で眉を開いて喜んでくださるだろうか。ここにざっと履歴を記して後の世に残す。

解説

別存の最後に置かれた、一斎自身の履歴の記です。二十一歳の一斎は、美濃岩村藩主の子であった林述斎に励まされ、大坂の懐徳堂の中井竹山のもとで半年学びました。述斎の詩は、箱に眠る名剣がやがて龍となって飛ぶという故事で若者の才を讃え、竹山は王陽明の「仆れて復た興る」に自ら一句を添えて贈っています。江戸に戻った一斎は林錦峯に入門し、やがて述斎が林家を継いだことで、二人は幼なじみの学友から生涯の師弟となりました。晩年の抜擢を述斎に報告するように結ぶ文面には、深い恩義がにじみます。人の一生を決める出会いや後押しとは何かを考えさせる記録です。

この章句が説くこと

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