折たく柴の記 / 『折たく柴の記』独学の日々と阿比留との出会い
京の人にて、醫を業とし、すこしく學問あるが、戸部の許に日々來れるあり。此の人にむかひて、こゝろざしの程を語りしに、小學の題辭を講じきかせられたり。(前にしるし、我が父の病み給ふ時、獨參湯まゐらせし人なり。江馬益庵といふ。名は玄牧)その後、又程子の四箴をも講じきかせられしより、やがて小學の書を、日夜に誦し習ひて、業すでに畢りぬれば、四書を誦し習ひ、その後又、五經をも誦し習ひたれど、これら皆々句讀を授けし師あるにも非らず。みづから韻會字彙等の書によりて、誦し習ひければ、後に思ふにひがでとのみぞ多かりける。文學の拙くして、字義を解する事の難きにくるしみて、學びのいとまあるをり〳〵には、文章詩賦の類をも學びし程に、その年の十二月の比、冬景即事を七言律詩に賦しなしたり。これ我が詩作れる事の始めなり。ある人の其の詩を評しける事あるを聞きて、やがて其の嘲を解く文一篇作りたりけり。これ又文作れることの始なり。されど、いとけなかりし時、我が父の友とし給ひし人も、又我が父の仰せられし事もあれば、學文の事をば、父には深くしのびまゐらせたりしかど、書籍等もとめ得べきやうなければ、母にておはせし人には、我がこころざしのほどを聞えまゐらす。かくて廿一歳の時に至りて、豫州の家をさりしかば、此の時に及びてこそ、同じ志の人々をあひ知りて、ものまなぶ事をも得れ。されど、思ふ所あれば、師をもとむるには及はず。此の比よりぞ、對馬の國の儒生阿比留といひし人をば相識りる。廿六の春ふたゝび出でつかふり身となりぬ。ことしの秋、朝鮮の聘使來れり。かの阿比留によりて、平生の詩百首を錄して、三學士の評を乞ひしに、其の人を見てのちに序作るべしといふ事にて、九月一日に客館におもむきて、製述官成琬、書記官李聃齡、ならびに裨將洪世泰などいふもの共にあひて、詩作りし事などありし。其の夜に成琬、我が詩集に序作りて贈りたりき。此の年恭靖木先生も、(木下平之丞殿の御事なり)公にめし出され給ひ、かの阿比留、彼の門に入りてものまなぶ。
新字:京の人にて、医を業とし、すこしく学問あるが、戸部の許に日々来れるあり。此の人にむかひて、こゝろざしの程を語りしに、小学の題辞を講じきかせられたり。(前にしるし、我が父の病み給ふ時、独参湯まゐらせし人なり。江馬益庵といふ。名は玄牧)その後、又程子の四箴をも講じきかせられしより、やがて小学の書を、日夜に誦し習ひて、業すでに畢りぬれば、四書を誦し習ひ、その後又、五経をも誦し習ひたれど、これら皆々句読を授けし師あるにも非らず。みづから韻会字彙等の書によりて、誦し習ひければ、後に思ふにひがでとのみぞ多かりける。文学の拙くして、字義を解する事の難きにくるしみて、学びのいとまあるをり〳〵には、文章詩賦の類をも学びし程に、その年の十二月の比、冬景即事を七言律詩に賦しなしたり。これ我が詩作れる事の始めなり。ある人の其の詩を評しける事あるを聞きて、やがて其の嘲を解く文一篇作りたりけり。これ又文作れることの始なり。されど、いとけなかりし時、我が父の友とし給ひし人も、又我が父の仰せられし事もあれば、学文の事をば、父には深くしのびまゐらせたりしかど、書籍等もとめ得べきやうなければ、母にておはせし人には、我がこころざしのほどを聞えまゐらす。かくて廿一歳の時に至りて、予州の家をさりしかば、此の時に及びてこそ、同じ志の人々をあひ知りて、ものまなぶ事をも得れ。されど、思ふ所あれば、師をもとむるには及はず。此の比よりぞ、対馬の国の儒生阿比留といひし人をば相識りる。廿六の春ふたゝび出でつかふり身となりぬ。ことしの秋、朝鮮の聘使来れり。かの阿比留によりて、平生の詩百首を録して、三学士の評を乞ひしに、其の人を見てのちに序作るべしといふ事にて、九月一日に客館におもむきて、製述官成琬、書記官李聃齢、ならびに裨将洪世泰などいふもの共にあひて、詩作りし事などありし。其の夜に成琬、我が詩集に序作りて贈りたりき。此の年恭靖木先生も、(木下平之丞殿の御事なり)公にめし出され給ひ、かの阿比留、彼の門に入りてものまなぶ。
書き下し
京の人にて、醫を業とし、すこしく學問あるが、戸部の許に日々來れるあり。此の人にむかひて、こゝろざしの程を語りしに、小學の題辭を講じきかせられたり。(前にしるし、我が父の病み給ふ時、獨參湯まゐらせし人なり。江馬益庵といふ。名は玄牧)その後、又程子の四箴をも講じきかせられしより、やがて小學の書を、日夜に誦し習ひて、業すでに畢りぬれば、四書を誦し習ひ、その後又、五經をも誦し習ひたれど、これら皆々句讀を授けし師あるにも非らず。みづから韻會字彙等の書によりて、誦し習ひければ、後に思ふにひがでとのみぞ多かりける。文學の拙くして、字義を解する事の難きにくるしみて、學びのいとまあるをり〳〵には、文章詩賦の類をも學びし程に、その年の十二月の比、冬景即事を七言律詩に賦しなしたり。これ我が詩作れる事の始めなり。ある人の其の詩を評しける事あるを聞きて、やがて其の嘲を解く文一篇作りたりけり。これ又文作れることの始なり。されど、いとけなかりし時、我が父の友とし給ひし人も、又我が父の仰せられし事もあれば、學文の事をば、父には深くしのびまゐらせたりしかど、書籍等もとめ得べきやうなければ、母にておはせし人には、我がこころざしのほどを聞えまゐらす。かくて廿一歳の時に至りて、豫州の家をさりしかば、此の時に及びてこそ、同じ志の人々をあひ知りて、ものまなぶ事をも得れ。されど、思ふ所あれば、師をもとむるには及はず。此の比よりぞ、對馬の國の儒生阿比留といひし人をば相識りる。廿六の春ふたゝび出でつかふり身となりぬ。ことしの秋、朝鮮の聘使來れり。かの阿比留によりて、平生の詩百首を錄して、三學士の評を乞ひしに、其の人を見てのちに序作るべしといふ事にて、九月一日に客館におもむきて、製述官成琬、書記官李聃齡、ならびに裨將洪世泰などいふもの共にあひて、詩作りし事などありし。其の夜に成琬、我が詩集に序作りて贈りたりき。此の年恭靖木先生も、(木下平之丞殿の御事なり)公にめし出され給ひ、かの阿比留、彼の門に入りてものまなぶ。
現代語訳
京の人で、医を業とし、少し学問のある人が、戸部のもとに毎日来ていた。この人に向かって志のほどを語ったところ、小学の題辞を講じて聞かせてくださった。(前に記した、私の父が病まれたとき、独参湯を差し上げた人である。江馬益庵という。名は玄牧。)その後、また程子の四箴をも講じて聞かせてくださってから、そのまま小学の書を日夜に声に出して習い、学業がすでに終わったので、四書を誦し習い、その後また五経をも誦し習ったが、これらはみな句読を授けてくれた師があったわけでもない。みずから韻会・字彙などの書によって誦し習ったので、後に思うと誤りばかり多かった。文学が拙くて字義を解することの難しさに苦しみ、学びの暇のあるおりおりには、文章や詩賦の類をも学んだところ、その年の十二月のころ、冬景即事を七言律詩に作った。これが私が詩を作った始めである。ある人がその詩を批評したことがあるのを聞いて、そのまま、その嘲りを解く文一篇を作った。これもまた文を作った始めである。ただし、幼かったとき、父の友人であった人からも、また父が言われたこともあったので、学問のことは父には深く隠していたが、書籍などを求められるはずもないので、母であった人には、私の志のほどを申し上げた。こうして二十一歳のときになって、予州の家を去ったので、このときに及んで、同じ志の人々と知り合って、ものを学ぶことができた。けれども、思うところがあって、師を求めるには及ばなかった。このころから、対馬国の儒生で阿比留という人と相識った。二十六歳の春、再び出仕する身となった。ことしの秋、朝鮮の聘使が来た。あの阿比留を通じて、平生の詩百首を記して、三学士の批評を乞うたところ、その人に会ってから後に序を作るということで、九月一日に客館に赴き、製述官成琬、書記官李聃齢、ならびに裨将洪世泰などという者たちに会って、詩を作ったことなどがあった。その夜に成琬は、私の詩集に序を作って贈ってくれた。この年、恭靖木先生も(木下平之丞殿のことである)、公に召し出され、あの阿比留はその門に入って学んだ。
解説

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折たく柴の記・『折たく柴の記』四五歳の聴講と六歳の詩学此の後は、常に戯れに筆とりて物かく事のみをしへければ、おのづから日々に文字を見しりたれど、物よむ師友とすべき人なかりしかば、たゞ往來もの丶類などをよみならふのみなりき。戸部の家人に富田とて、生國は加賀國の人と聞えしが、太平記の評判といふ書を傳へて、其の事を講ずるあり。(はじめは小右衞門某といふ。後には覺信といひし人なり)夜々に我が父など寄り合ひつゝ、其の事を講ぜしめらる。我が四五歳の時に、つねに其の座に侍りてこれをきくに、夜いたくふけぬれど、つひに坐をさりし事もなく、講畢りぬれば、其の義を請ひ問ふ事などありしを、人々奇特の事なりといひき。六歳の夏の頃、上松といひし人の、すこしく文字などありしが(忠兵衞某といふ。駿河の今川の家人上松が後にて連歌などをこのみて、物よくかきし人なりき。)七言絶句の詩一首をしへて、其の意を解き聞かせしに、やがて誦をなしければ、三首までをしへられしをば、人にも講じ聞かせたりき。(三傳市虎人皆從といふ詩と、朝鮮國七歳の兒の、太閤の前にて作りしといふ詩と、自休藏主とかいふ僧江の島にて作りし詩なりき)此の兒文才あり。いかにも師をえらびて、學ばしめらるべしなど、彼の人もいひしかど、かたくなるむかし人だちのいひしは、むかしよりいひ傳へし事あり。利根、氣根、黄金の三こんなくしては、學匠になりがたじといふなり。此の兒利根こそ生れつきたらめ。なほいとけなくしてその氣根の事もはかりがたく、家富めりとも見えねば、黄金の事心得られずなどいひあへりしに、我が父も戸部の御いつくしみによりて、つねにかたはらをはなれまゐらせず。學に入れ師にしたがはしめむ事もかなふべからず。されどいとけなきより、物かく事をば、戸部も人々にかたりほこらせ給ひし事なれば、せめて物をばかき習はしめたくてこそ侍れとて
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折たく柴の記・『折たく柴の記』八九歳の習字と十一歳の代筆我が八歳の秋、戸部の上總國にゆき給ひしあとにて、手習ふ事を敎へしめらる。其の冬の十二月なかば、戸部歸り參り給ひしかば、つねにかたはらにさぶらふ事、もとのごとく、明けの年の秋、また國にゆき給ひしあとにて課をたてられて、日のうちには、行草の字三千、夜に入りて一千字を限りてかき出すべしと命ぜられたり。冬に至りぬれば、日短くなりて、課はまだみたざるに、日暮れむとする事たび〳〵にて、西向なる竹縁のある上に机をもち出でて、書き終りぬる事もありき。また夜に入りて手習ふに、睡の催して堪へがたきに、我につけられしものと、ひそかにはかりて、水二桶づゝ、かの竹縁に汲みおかせて、いたくねぶりの催しぬれば、衣ぬぎすてゝ、まづ一桶の水をかゝりて、衣うちきて習ふにはじめひやゝかなるに目さむる心地すれど、しばし程經ぬれば、身あたたかになりて、また〳〵眠くなりぬれば、又水をかゝる事さきの事の如くす。二たび水をかゝりぬるほどには、大やうは、課をもみてたりき。これ我が九歳の秋冬の間の事なり。かゝりし程に、此の頃よりは、我が父の人に贈り給ふ文をば、かたの如くにはかきたり。十一歳の秋、また課をたてられて、庭訓往來を習はしめられ、十一月に至りて、十日のうちに淨寫してまゐらすべしと命ぜられ、命ぜられし如くに事を終へしかば、冊になして戸部に見せ進らす。ほめ給ふ事大かたならず。十三の時よりは、戸部の人と贈答し給ふ程の文ども、大かたは我に命ぜられき。
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『玉勝間』二の巻 おのが物まなびの有しやうおのれいときなかりし程より、書を読む事をなむ、よろずよりも面白く思いて、読みける。さるははかばかしく師に附きて、わざと学問すとにも有らず、何と心ざす事も無く、そのすじと定めたるかたも無くて、ただからのやまとの、くさぐさのふみを、有るにまかせ、うるにまかせて、古き近きをも云わず、何くれと読みけるほどに、十七八なりし程より、歌詠ままほしく思う心いできて、詠みはじめけるを、それは師に従いて、学べるにも有らず、人に見する事などもせず、ただひとり詠み出ずるばかりなりき。集どもも、古き近きこれかれと見て、かたの如く今の世の詠みざまなりき。斯くてはたちあまりなりし程、学問しにとて、京になんのぼりける。さるは十一の年、父におくれしにあわせて、江戸に在りし、家のなりわいをさえに、失いたりし程にて、母なりし人のおもむけにて、くすしのわざを習い、またそのために、世のつねの儒学をもせむとてなりけり。
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