言志四録 / 言志晩録 別存 第三十五条 渠の使ふ所と為る
公曰。老吏往往謂我能驅使小人。使渠不敢爲不善。然當初大抵如其言。經久則不自覺爲渠所使。其如之何。
新字:公曰。老吏往往謂我能駆使小人。使渠不敢為不善。然当初大抵如其言。経久則不自覚為渠所使。其如之何。
書き下し
公曰く、「老吏往往謂ふ、我能く小人を駆使し、渠をして敢て不善を為さざらしむと。然れども当初は大抵其の言の如くなるも、久しきを経れば則ち自ら覚えずして渠の使ふ所と為る。其れ之を如何せん」と。
現代語訳
公(林述斎)は言った。「古参の役人はしばしば、自分は小人(つまらない下役)をうまく使いこなし、彼らに悪事をさせないようにしている、と言う。しかし、初めのうちはたいていその言葉どおりであっても、長い時がたつと、自分でも気づかないうちに彼らに使われるようになってしまう。これをどうしたものか」。
解説
人を使う者が、いつの間にか使われる側になる危うさを指摘した述斎の言葉です。経験を積んだ役人は、自分は小人をうまく使いこなし、悪事をさせないと自負しがちです。しかし初めはそのとおりでも、年月が経つうちに、自分でも気づかぬまま相手に操られるようになる。情報や段取りを握る下の者に頼りきるうちに、主客が入れ替わってしまうのです。末尾の「其れ之を如何せん」は、簡単な解決策はないという嘆きとも、自戒を促す問いかけとも読めます。長く同じ立場にいる人ほど陥りやすい落とし穴で、自分の判断が本当に自分のものか、誰かに誘導されていないかを、ときどき点検してみる必要を感じさせる一条です。
この章句が説くこと
人の使い方慢心自戒組織の弊小人
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