言志四録 / 言志晩録 別存 第二十三条 橘閨孺人の内助
孺人姓前原氏。諱八百。爲公之生母養心孺人之姪女。幼育於巖邑太夫人之側。有才幹。無姿色。既長。太夫人畀之於公爲侍妃。謂此孃他人不能馭也。及公之入嗣於林氏。孺人亦從行。多內助。孺人多藝。倭歌尤擅長。先公而歿。諸郞皆其出云。
新字:孺人姓前原氏。諱八百。為公之生母養心孺人之姪女。幼育於巖邑太夫人之側。有才幹。無姿色。既長。太夫人畀之於公為侍妃。謂此嬢他人不能馭也。及公之入嗣於林氏。孺人亦従行。多内助。孺人多芸。倭歌尤擅長。先公而歿。諸郎皆其出云。
書き下し
孺人、姓は前原氏、諱は八百。公の生母養心孺人の姪女たり。幼にして巌邑太夫人の側に育つ。才幹有りて、姿色無し。既に長じて、太夫人之を公に畀へて侍妃と為す。謂ふ、「此の嬢は他人馭すること能はざるなり」と。公の林氏に入嗣するに及びて、孺人も亦従ひ行き、内助多し。孺人多芸にして、倭歌尤も長ずる所を擅にす。公に先だちて歿す。諸郎は皆其の出なりと云ふ。
現代語訳
孺人は、姓は前原氏、名は八百。公(林述斎)の生母である養心孺人の姪にあたる。幼いころから岩村藩の太夫人(藩主の母)のそばで育った。才覚はあったが、容姿は美しくなかった。成長すると、太夫人は彼女を公に与えて側室とし、「この娘は、ほかの者では扱いこなせない」と言った。公が林家に養子として入ると、孺人もそれに従って行き、公を大いに内助した。孺人は多芸で、和歌がとりわけ得意であった。公より先に亡くなった。公の息子たちは皆、彼女の生んだ子であるという。
解説
前条に出た述斎の側室、前原八百の人となりを記した条です。述斎の生母の姪で、岩村藩の太夫人のもとで育ち、才覚はあるが器量はよくなかったといいます。太夫人は「この娘は他の者には扱えない」と言って述斎に与えました。才気の強い女性を、才気の強い述斎なら受け止められると見たのでしょう。八百は述斎の林家入りに従い、多くの内助をなし、和歌にも優れ、述斎の息子たちはみな彼女の子でした。容姿ではなく才幹で人を見て、ふさわしい相手と組み合わせた太夫人の眼識も印象に残ります。人と人との組み合わせを考えるとき、表面の印象ではなく何を見て判断しているかを問い直させる一条です。
この章句が説くこと
内助才幹人を見る目家族和歌
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