言志四録 / 言志晩録 別存 第二十一条 妹をして男子たらしめば
故佐嘉少將諱治茂夫人諱絜。讀做須武後稱智照院。爲快烈公同母妹。有才性。事兩慈至孝。自六七歲時。好讀國書。能倭歌。閣老白川源公。知其爲非常賢媛。媒嫁於佐嘉少將。惜乎年三十四逝。葬麻布賢崇寺。有歌集。題曰渚玉集。余仲姉從嫁於佐嘉邸。宦爲中老。稱梅野。及夫人逝。剃染爲尼。改稱梅樹院。廬於寺境以終身。快烈公謂。使妹生爲男子。則我避三舍。蚤世可惜之至。
新字:故佐嘉少将諱治茂夫人諱絜。読做須武後称智照院。為快烈公同母妹。有才性。事両慈至孝。自六七歳時。好読国書。能倭歌。閣老白川源公。知其為非常賢媛。媒嫁於佐嘉少将。惜乎年三十四逝。葬麻布賢崇寺。有歌集。題曰渚玉集。余仲姉従嫁於佐嘉邸。宦為中老。称梅野。及夫人逝。剃染為尼。改称梅樹院。廬於寺境以終身。快烈公謂。使妹生為男子。則我避三舎。蚤世可惜之至。
書き下し
故佐嘉少将、諱は治茂の夫人、諱は絜、読みて須武と做す。後に智照院と称す。快烈公の同母の妹たり。才性有り、両慈に事へて至孝なり。六七歳の時より、好んで国書を読み、能く倭歌す。閣老白川源公、其の非常の賢媛たるを知り、媒して佐嘉少将に嫁せしむ。惜しいかな、年三十四にして逝く。麻布賢崇寺に葬る。歌集有り、題して渚玉集と曰ふ。余が仲姉従ひて佐嘉邸に嫁し、宦して中老と為り、梅野と称す。夫人の逝くに及びて、剃染して尼と為り、改めて梅樹院と称し、寺境に廬して以て身を終ふ。快烈公謂ふ、「妹をして生まれて男子たらしめば、則ち我三舎を避けん。蚤世惜しむべきの至りなり」と。
現代語訳
故佐賀少将、名は治茂(鍋島治茂)の夫人は、名を絜といい、「すむ」と読む。後に智照院と称した。快烈公(林述斎)の同じ母から生まれた妹である。才知と天分があり、二人の母(嫡母と生母)に仕えてこの上なく孝行であった。六、七歳のころから好んで和書を読み、和歌に巧みであった。老中の白河侯(松平定信)が、並はずれた賢女であると知り、仲立ちして佐賀少将に嫁がせた。惜しいことに三十四歳で亡くなり、麻布の賢崇寺に葬られた。歌集があり、『渚玉集』という。私の次姉はこの夫人に従って佐賀藩邸に入り、奥勤めをして中老となり、梅野と称した。夫人が亡くなると、髪を剃って墨染めの衣をまとい尼となり、梅樹院と名を改め、寺の境内に庵を結んで生涯を終えた。快烈公は言った。「もし妹が男に生まれていたら、私は三舎を避けて(道を譲って)いただろう。早世したのは惜しみてもあまりある」。
解説
この章句が説くこと
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