言志四録 / 言志晩録 別存 第三条 漢唐の旧説は姑く存す
門人有好攻漢唐之說者。公曰。濂洛復古。與漢唐殊異。然漢唐註疏。京兆博士家傳已久矣。今不必繳。但惺窩之學。神祖特崇信之。爲臣子者。所宜依遵。漢唐舊說。姑存之。可也。
新字:門人有好攻漢唐之説者。公曰。濂洛復古。与漢唐殊異。然漢唐註疏。京兆博士家伝已久矣。今不必繳。但惺窩之学。神祖特崇信之。為臣子者。所宜依遵。漢唐旧説。姑存之。可也。
書き下し
門人に好んで漢唐の説を攻むる者有り。公曰く、「濂洛の復古は、漢唐と殊異なり。然れども漢唐の註疏は、京兆の博士家伝ふること已に久し。今必ずしも繳めず。但だ惺窩の学は、神祖特に之を崇信す。臣子たる者は、宜しく依遵すべき所なり。漢唐の旧説は、姑く之を存して可なり」と。
現代語訳
門人の中に、好んで漢・唐の古い経学説を研究する者がいた。公(林述斎)は言った。「周濂渓や程子(濂洛の学、すなわち宋学)の古の聖人の道への復帰は、漢・唐の学とはまったく異なる。しかし漢・唐の注釈は、京都の博士家(清原家など)が久しく伝えてきたものである。今あえて取り締まることはしない。ただ惺窩の学は、神祖(徳川家康)が特に尊び信じたものであり、臣下たる者はこれに従うべきである。漢・唐の古い説は、しばらくそのまま残しておけばよい」。
解説
宋学(朱子学)と漢唐の訓詁学の関係について、述斎の態度を記した条です。濂洛とは周濂渓と程明道・程伊川の学で、朱子学の源流を指します。述斎は、朱子学こそ孔子の道に立ち返る学だとしつつ、京都の博士家が伝えてきた漢唐の注釈を禁じることはしませんでした。家康が惺窩の学を尊んだ以上、幕府の臣はそれに従うべきだが、古い説も「姑く存す」、つまり排除せずに置いておけばよいというのです。寛政異学の禁の時代に学問所を預かった述斎の、原則は守りつつ異論を根絶やしにしない柔らかさがうかがえます。組織の公式方針と多様な見解をどう両立させるかを考える材料になります。
この章句が説くこと
朱子学訓詁学寛容学統方針
関連する章句
-
論語・先進篇顔淵死す。門人厚く之を葬らんと欲す。子曰く、「不可なり。」門人厚く之を葬る。子曰く、「回や、予を視ること猶お父のごとし。予は視ること猶お子のごとくするを得ざるなり。我に非ざるなり、夫の二三子なり。」
-
史記 廉頗藺相如列伝李牧は、趙の北辺の良将なり。常に代の鴈門に居り、匈奴に備ふ。便宜を以て吏を置き、市租は皆莫府に輸入して、士卒の費と為す。日に数牛を撃ちて士を饗し、射騎を習はしめ、烽火を謹み、間諜を多くし、厚く戦士を遇す。約を為りて曰く、「匈奴即し入りて盗まば、急ぎ入りて収保せよ。敢へて虜を捕ふる者有らば斬らん」と。匈奴入る毎に、烽火謹み、輒ち入りて収保し、敢へて戦はず。是くの如きこと数歳、また亡失せず。然れども匈奴は李牧を以て怯と為し、趙の辺兵と雖もまた以為へらく吾が将は怯なりと。趙王李牧を譲む、李牧故の如し。趙王怒り、これを召し、他人をして代はりて将たらしむ。歳余、匈奴来たる毎に、出でて戦ふ。出でて戦ひ、数々利あらず、失亡多く、辺は田畜するを得ず。また李牧に請ふ。牧、門を杜ぎて出でず、固く疾と称す。趙王乃ちまた彊ひて起たしめて兵を将ゐしむ。牧曰く、「王必ず臣を用ひば、臣前の如くせん、乃ち敢へて令を奉ぜん」と。王これを許す。李牧至り、故の約の如くす。匈奴数歳得る所無し。終に以て怯と為す。辺士日に賞賜を得れども用ひられず、皆一戦を原(ねが)ふ。是に於いて乃ち選車を具へて千三百乗を得、選騎万三千匹を得、百金の士五万人、彀者十万人、悉く勒して戦ひを習はしむ。大いに畜牧を縦ち、人民野に満つ。匈奴小しく入る、詳りて北げて勝たず、数千人を以てこれに委ぬ。単于これを聞き、大いに衆を率ゐて来たり入る。李牧多く奇陳を為し、左右の翼を張りてこれを撃ち、大いに匈奴十余万騎を破り殺す。襜襤を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降す、単于奔走す。その後十余歳、匈奴敢へて趙の辺城に近づかず。
-
『墨子』尚賢下是の故に古の聖王の天下を治むるや、其の富ます所、其の貴くする所は、未だ必ずしも王公大人の骨肉の親、故無くして富貴なる、面目美好なる者ならざるなり。是の故に昔者、舜は歴山に耕し、河瀕に陶し、雷澤に漁し、常陽に灰す。堯、之を服澤の陽に得て、立てて天子と為し、天下の政に接して天下の民を治めしむ。昔、伊尹は莘氏の女の師僕と為り、庖人と為らしめらる。湯、得て之を舉げ、立てて三公と為し、天下の政に接して天下の民を治めしむ。昔者、傅説は北海の洲、圜土の上に居り、褐を衣、索を帯び、傅巖の城に庸築す。武丁、得て之を舉げ、立てて三公と為し、之をして天下の政に接して天下の民を治めしむ。是の故に昔者、堯の舜を舉ぐるや、湯の伊尹を舉ぐるや、武丁の傅説を舉ぐるや、豈に骨肉の親、故無くして富貴なる、面目美好なる者を以て為さんや。唯だ其の言に法り、其の謀を用い、其の道を行い、上は以て天を利す可く、中は以て鬼を利す可く、下は以て人を利す可し。是の故に推して之を上せるなり。
-
『塩鉄論』刺復篇文學曰く、冰炭は器を同じくせず、日月は並び明らかならず。公孫弘の時に當たり、人主は方に謀を設け意を四夷に垂る、故に權譎の謀進み、荊・楚の士用いられ、將帥は或いは封侯食邑に至り、而して勀獲する者は咸な厚賞を蒙る、是を以て奮擊の士は此に由りて興る。其の後、干戈休まず、軍旅相い望み、甲士糜弊し、縣官の用足らず、故に險を設け利を興すの臣起こり、磻溪熊羆の士は隱る。涇・渭に渠を造りて以て漕運を通じ、東郭咸陽・孔僅は鹽・鐵を建て、諸利を策す、富者は爵を買い官を販り、刑を免れ罪を除く、公用いよいよ多くして為す者は私に徇う、上下兼ね求め、百姓堪えず、抏弊して法に從う、故に憯急の臣進みて、見知・廢格の法起こる。杜周・咸宣の屬は、峻文を以て理を決して貴く、而して王溫舒の徒は鷹隼の擊殺を以て顯る。其の仁義に據りて道を以て君に事えんと欲する者は寡く、偷合取容する者は眾し。獨り一公孫弘を以て、之を如何せん。
-
論語・陽貨篇子、武城に之く。弦歌の声を聞く。夫子莞爾として笑いて曰く、「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん。」子游対えて曰く、「昔者、偃や諸を夫子に聞けり、曰く、『君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易し』と。」子曰く、「二三子、偃の言は是なり。前言は之に戯れしのみ。」
-
『宋名臣言行録』前集巻一・竇儀儼、顯徳中、上疏して六綱を言う。一に曰く禮を明らかにす、二に曰く樂を崇ぶ、三に曰く政を熙す、四に曰く刑を正す、五に曰く農を勸む、六に曰く武を經む。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る