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言志四録 / 言志晩録 別存 第一条 藤公を標的とすべし

快烈林公尸祝惺窩藤公曰。我邦宋學之首唱。家祖文敏之師也。不可不尊奉焉。乃新命毎歲寄粟數苞。以供歲時之饌。又首春狗日。揭眞影。陳遺物。祀之家廳。年例令然。嘗曰。藤公生於戰國。獨唱此學。以開太平。數進講後水尾帝。荐蒙睿感。神祖台廟數引見。因擢我祖於草莽。以其爲弟子也。及後黃門西山源公校其遺集。後光明帝賜御製序。此邦儒學之宗。莫能尙焉。後之爲儒者。皆當以藤公爲標的。不可有違越。

新字:快烈林公尸祝惺窩藤公曰。我邦宋学之首唱。家祖文敏之師也。不可不尊奉焉。乃新命毎歳寄粟数苞。以供歳時之饌。又首春狗日。掲真影。陳遺物。祀之家庁。年例令然。嘗曰。藤公生於戦国。独唱此学。以開太平。数進講後水尾帝。荐蒙睿感。神祖台廟数引見。因擢我祖於草莽。以其為弟子也。及後黄門西山源公校其遺集。後光明帝賜御製序。此邦儒学之宗。莫能尚焉。後之為儒者。皆当以藤公為標的。不可有違越。

書き下し

快烈林公、惺窩藤公を尸祝して曰く、「我が邦宋学の首唱にして、家祖文敏の師なり。尊奉せざるべからず」と。乃ち新たに命じて毎歳粟数苞を寄せ、以て歳時の饌に供す。又首春の狗日には、真影を掲げ、遺物を陳ね、之を家庁に祀る。年例として然らしむ。嘗て曰く、「藤公は戦国に生まれ、独り此の学を唱へ、以て太平を開く。数々後水尾帝に進講し、荐りに睿感を蒙る。神祖・台廟数々引見し、因りて我が祖を草莽より擢づ。其の弟子たるを以てなり。後に及びて黄門西山源公其の遺集を校し、後光明帝御製の序を賜ふ。此の邦の儒学の宗、能く尚ふる莫し。後の儒たる者は、皆当に藤公を以て標的と為すべく、違越有るべからず」と。

現代語訳

快烈公(林述斎)は藤原惺窩を祭り敬って言った。「わが国における宋学(朱子学)の最初の提唱者であり、わが家祖文敏公(林羅山)の師である。尊び奉らないわけにはいかない」。そこで新たに命じて、毎年米を数俵(惺窩の子孫の家に)送らせ、季節の祭りの供え物に充てさせた。また正月二日(狗日)には、惺窩の肖像を掲げ、遺品を並べて、林家の広間で祭った。これを毎年のならわしとさせた。かつて公は言った。「藤公は戦国の世に生まれ、ただ一人この学問を唱えて、太平の世を開いた。たびたび後水尾天皇に進講し、しばしば天皇の感銘を受けた。神祖(徳川家康)や台徳院(秀忠)もたびたび引見し、それによってわが祖(羅山)を在野から抜擢した。羅山が惺窩の弟子だったからである。後には黄門西山公(徳川光圀)がその遺文集を校訂し、後光明天皇が御製の序文を賜った。わが国の儒学の祖として、これにまさる者はない。後世の儒者は皆、藤公を目標とすべきであり、それに背いたり踏み越えたりしてはならない」。

解説

『言志晩録』の後に付された「別存」は、一斎が師であり主家の当主でもあった林述斎(諡は快烈)の言行を書き留めた記録で、この条がその冒頭です。述斎は林家の祖・羅山の師である藤原惺窩を「わが国朱子学の首唱者」として毎年祭り、その子孫に米を贈らせました。戦国の世に儒学を唱えて太平の礎を開いた惺窩を、後の儒者はみな目標とせよと述べています。一斎は林家の塾頭として述斎に長く仕えた人で、この記録には学統の源を明らかにする意図がうかがえます。組織が自らの起こりと恩人を忘れずに祭り続けることは、単なる儀礼ではなく、何を受け継ぐ者なのかを確かめ直す営みでもあります。

この章句が説くこと

学統尊師朱子学報恩祭祀

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