言志四録 / 言志晩録 第二百九十二条 真我は万古に亘りて死せず
夢中之我。我也。醒後之我。我也。知其爲夢我。爲醒我者。心之靈也。靈即眞我也。眞我自知。無閒於醒睡。常靈常覺。亘乎萬古而不死者矣。
新字:夢中之我。我也。醒後之我。我也。知其為夢我。為醒我者。心之霊也。霊即真我也。真我自知。無閒於醒睡。常霊常覚。亘乎万古而不死者矣。
書き下し
夢中の我も、我なり。醒後の我も、我なり。其の夢我たり醒我たるを知る者は、心の霊なり。霊は即ち真我なり。真我は自ら知る、醒睡に間無し。常に霊にして常に覚め、万古に亘りて死せざる者なり。
現代語訳
夢の中の自分も自分である。目覚めた後の自分も自分である。それが夢の中の自分であり、目覚めた自分であると知っているのは、心の霊妙な働きである。この霊こそが真の自分である。真の自分はおのずから知っていて、目覚めていても眠っていても途切れることがない。常に霊妙で常に目覚めており、万古にわたって死ぬことのないものである。
解説
死生を論じる一連の条を締めくくるような一条です。夢の中の自分も、目覚めた自分も、どちらも自分である。しかしその両方を「これは夢の自分、これは目覚めた自分」と見分けて知っているものがある。一斎はそれを「心の霊」と呼び、それこそが真の我だと言います。真我は眠っていても目覚めていても途切れず、常に明らかに覚めていて、万古にわたって死なないとされます。王陽明の「良知」を思わせる考えで、朱子学を講じつつ陽明学に深く通じた一斎の思想がよく表れています。身体や境遇は変わっても、それを見つめる自分の心の働きは変わらない。変化の大きい時期に、自分の中心をどこに置くかを考える手がかりになる言葉です。
この章句が説くこと
真我心の霊死生観良知自覚
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