言志四録 / 言志晩録 第二百六十四条 聞睹すれば学は廃せず
老來目昏。猶能睹。耳聾。猶能聞。苟能聞睹。則此學惡能廢之。
新字:老来目昏。猶能睹。耳聾。猶能聞。苟能聞睹。則此学悪能廃之。
書き下し
老来目昏けれども、猶ほ能く睹る。耳聾すれども、猶ほ能く聞く。苟も能く聞睹せば、則ち此の学悪くんぞ能く之を廃せん。
現代語訳
年をとって目がかすんでも、なお見ることはできる。耳が遠くなっても、なお聞くことはできる。いやしくも聞いたり見たりできるのであれば、この学問をどうしてやめることができようか。
解説
前条の「忙しいから学を廃す」への反論に続き、ここでは「老いたから学を廃す」という言い訳を退けます。目がかすんでも見えないわけではなく、耳が遠くなっても聞こえないわけではない。見聞きできる限り、学ぶことはやめられないと一斎は言います。『論語』述而篇で孔子が「老いの将に至らんとするを知らず」と語った、学びに没頭する姿が重なります。八十八歳で没するまで講学を続けた一斎の生き方そのものの宣言と読めます。年齢や環境を理由に学びを止めたくなるときに、今の自分に残されている力で何ができるかに目を向けさせる言葉です。
この章句が説くこと
学問老い生涯学習持続
関連する章句
-
『囲炉夜話』第百三十則・川は海を學びて海に至る川は海を學びて海に至る、故に道を謀る者は、止心有るべからず。 莠は苗に非ずして苗に似たり、故に理を窮むる者は、真見無かるべからず。
-
『呻吟語』外篇・品藻・死に至るまで更に破綻無し若し聖賢の學問ならば、死に至るまで更に破綻無し。
-
言志四録・言志晩録 第二百五十七条 百里を行く者は九十を半ばとす余少壮の時気鋭く、此の学を視て容易に做すべしと謂へり。晩年に至りて蹉跎として意の如くなる能はず。譬へば山に登るが如し。麓より中腹に至るは易く、中腹より絶頂に至るは難し。凡そ晩年の為す所は、皆収結の事なり。古語に「百里を行く者は九十を半ばとす」と。信に然り。
-
『呻吟語』外篇・聖賢・堯舜の業は今に至るまで在り自古の功業は、惟だ孔孟のみ最も大にして且つ久し。時雍風動するも、今日の百姓も也た受用の處沒し。孔孟の之が與に發揮するに賴りて、堯・舜の業は今に至るまで在り。
-
論語・為政篇子曰く、異端を攻むるは、斯れ害のみ。
-
人物志・體別夫れ學は材を成す所以なり、疏は情を推す所以なり。偏材の性は、移轉すべからず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る